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憲法改正を巡る議論のまとめ

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参議院選挙が明けて「次のアジェンダは憲法改正だ」というようなことになってきた。とはいえ「聞いてないよ」という人も多いのではないかと思う。巷に出回っている憲法改正論はどちらかに偏っていて、イマイチ信頼できないという人の多いのではないかと思う。そこで、これまでの議論をまとめた。
あらためて書いてみると、日本の憲法改正議論というのがデタラメなのだということがよくわかる。これをまとめるのはなかなか大変そうである。

自民党

もともと自民党は憲法改正を党是としている。と同時に、国防や憲法を巡る議論は国論を二分するということでタブー扱いされていた。代わりに自民党が力を入れていたのが経済政策だった。
与党時代に一度憲法草案をまとめたが、これが激変したのは自民党が野党に転落していた時代だそうだ。舛添要一元東京都知事が「立憲主義を理解しない政治家が、憲法草案をめちゃくちゃにしてしまった」と嘆いている。立憲主義なんか学校で習わなかったと言った磯崎議員の言葉が有名だ。
自民党の支持母体に神道系の団体があり、そこでは「天賦人権のような西洋由来の考えは日本人には合わない」と主張している。代わりに推進したいのが「天皇を中心にした政治」である。国家神道は新興宗教のようなものなのだが、天皇の権威の下で国民を指導する立場にあった国家神道は、第二次世界大戦後に「その他の宗教」と同一にされてしまった。地位の回復を狙っているものと思われる。
これはイランのような宗教国家が聖典に基づいた政治を行うというのに似ているのだが、神道は聖典のない宗教だった。西洋の一神教と対抗するために神話から聖典を作り現在に至る。三原じゅん子議員が池上彰氏に「神武天皇は実在するのか」と聞かれて「実在すると思う」と答え大恥をかいたが、神話が聖典の代わりになっていることから来た誤解だ。ちなみに神武天皇の即位年が推定されたのも明治時代に入ってからである。つまり、国家神道は神道系の新興宗教なのだ。
これに呼応したのが、当時野党に転落していた自民党の抱えていたルサンチマンだ。政権を追い落としたのは「国民が悪い」という意識があったんだろう。その中心にいるのが安倍首相だ。
自民党の憲法草案は国民の人権を制限するものになっている。公共事業を推進するときに国民の財産権が問題になる場合があり、これを制限したいと考えているようだ。また、自民党政権を敵視する「アカ」が表現の自由を盾に反政府運動を展開するのが許せないのだろう。これが神道系の「恩賜憲法指向」と結びつき、復古的な新憲法案ができた。
しかし、自民党の憲法草案は天皇家の権力が強化されることには慎重なようだ。フリーハンドで政治が行いたいのではないかと考えることができる。その点で自民党の憲法草案は「革命指向だ」と揶揄されることがある。
自民党にとっての憲法改正は「宗教」のようなものになっている。

共産党・社民党

一方、護憲派と呼ばれる人たちにとっても、憲法は宗教のようになっている。指一本触れさせないというのが彼らの態度である。憲法九条擁護派の人たちの書いたパンフレットなどを読むと、憲法第九条がお題目(日蓮宗で言う南妙法蓮華経)のように掲げられている。共産党・社民党はソビエト崩壊時に進路変更に失敗した歴史がある。社会主義が挫折したにも関わらず、旧来の進路を変えることができなかった。そこですがりついたのが「戦争はいけない」という、誰も反対しそうにないスローガンだった。
憲法を一字一句遵守しようと考えれば、自衛隊の存在はあきらかに違憲だ。憲法ができたときには自衛隊のような存在はなかった。連合国に対してアメリカが日本支配の正当化を認めさせる過程で、どうしても日本の武装解除が必要だった。自衛隊は警察力として整備され、徐々に既成事実化された。だから、国が憲法の範囲内でしか行動できないとすれば、自衛隊は武装解除しなければならない。自衛隊は立憲主義に反するのだ。

民進党

民進党は複雑な事情を抱えている。党内には社会党から流れてきた護憲派の人がおり、自民党から流れてきた改憲派も抱えている。枝野議員が第九条改正試案を提案した(集団的自衛権を憲法に組み入れてようとした)というのは有名な話だし、長島昭久氏のように護憲派(とくに共産党)を毛嫌いしている議員も多い。故に、憲法議論をまとめようとすると党が破綻することは目に見えている。このため民進党は「立憲主義を理解していない自民党とは議論できない」という姿勢を取っている。
自民党が下野する過程で急進化したため、対抗上「護憲」ということになってしまった。これは民進党にとって意図しない結果だったのではないだろうか。現在は「民共合作」に追い込まれており、党内では憲法議論はできそうにない。
共産党・社民党にとって第九条は宗教だが、民進党の現実派(右派)にとっては政治的な駆け引きの道具になっている。民進党右派の中には野党自民党が作った急進的な(自民党によるとエッジの利いた)押し付け憲法論を排除して、憲法改正議論を正常化したいと考えている人がいるようだ。自民党の左派との親和性が高いのだが、自民党左派と民進党右派が合同しようという話はない。また、選挙で護憲派市民団体の支持を受けている手前、おおっぴらに憲法改正議論ができるような環境にもない。

おおさか維新の会

おおさか維新の会の憲法に関する姿勢はトリッキーだ。自民党が単独で憲法改正できる見込みはなく協力政党が必要である。また「熟議を尽くした」という演出をしたいので、何らかの別提案が必要になってくる。そこでおおさか維新の会は憲法改正を主張している。自民党にとって憲法改正は宗教なのだが、おおさか維新の会にとっては政治だ。
憲法はバーゲニングの材料として政治利用されているのだが、それだけでは飽き足らず二つの提案をしている。一つは教育を無償にしますよという提案であり、もう一つは地方に財源を移行するという地方分権論だ。その他参議院の廃止と憲法裁判所の設置を提案している。つまり、与党とのバーゲニングとポピュリズムの道具として憲法を利用しようとしているのである。
そもそも、地方分権は大前研一氏などが提唱した政策だった。競争と多様性をもたらすことで日本を再活性化しようという政策なのだ。地方が自前で「稼ぐ力」を得ようというのがもともとの提案である。ところが、これが維新系に組み入れられる過程で、バラマキ(という言い方が悪ければ再配分)政策に変わってしまった。憲法議論のジャパナイズ(日本化)とはこういうことなのかという驚きと落胆がある。

公明党

公明党は創価学会を支持母体としている。創価学会は宗教団体であり「平和主義」を唄っている。つまり、公明党はもともと護憲派としての意識が強いのだ。しかし、政権にコミットする過程で、平和主義を修正せざるをえなくなってしまった。しかし、憲法第九条は未だに聖典であり改憲議論にコミットすることは、公明党の存在意義を揺るがしかねない。
公明党にとっての憲法第九条は共産党・社民党と同じ聖典なのだが、前者が「改憲は絶対にダメだ」と言っているのに比べ、公明党は「環境権などを加える」ということで、自分たちは護憲ではないと位置づけている。しかし、自民党とコアな支持者たちにとって「環境などどうでもよい」わけで、憲法改正議論が本格化すれば、公明党は平和の党の看板を下ろすか、政権から離脱するかの二者択一を迫られることになるだろう。路線としては平和の党の看板を下ろす(あるいは支持者に離反される)ことになりそうだ。実際に、今回の参議院選挙でも一人区で24%もの人が野党候補に投票したという調査もある。
 

まとめ

各党の改憲・護憲の議論は錯綜しており、まとまる見込みはなさそうだ。加えて国会勢力で純粋に護憲を唄っている人たちはごく少数派である。にも関わらず憲法改正議論がまとまらないのは、日本人が基本的に強力なリーダーシップを嫌い、理念のように形がないものを扱うのに不慣れだからだろう。明治憲法はワイマール憲法の模倣だし、現行憲法はアメリカがひな形を作ったものだ。
中国から輸入した制度もほどなく空文化した。官位や氏といった制度はなし崩しになり、都合良く運用された歴史があるし、土地の管理も有名無実化した。制度を変えようというコンセンサスやリーダーシップが得られなかったことに起因する。
もし三原じゅん子議員が主張したように「日本の伝統を受け止めた憲法」を作るとしたら、それは成文憲法そのものをなくすことにつながるだろう。神道にはまとまった聖典ができなかった。そもそも日本には理念を文字で残すという文化を持たないのだ。


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