共同通信が「資金還流再開「下村氏が要求」 特捜部聴取に安倍派関係者」という記事を出している。専門家のコメントがついていて白鳥浩氏が「いまだパーティー券をめぐるキックバックの再開の決定に関しては、「羅生門」状態であり、藪の中を抜け出るような決定的な状況証拠に乏しい。」と述べている。問題の本質が明らかにならないうえに何が本質なのか誰も話しあわない。代わりに「誰が悪いのか」が焦点になってゆく。犯人を差し出して石を投げることで人々の気持ちを収めようとしている。極めて日本的な問題解決手法であるといえるだろう。
まず記事の内容から見てゆきたい。国語の問題だ。「誰が主語」かわかるだろうか。
自民党安倍派の政治資金パーティー裏金事件で、2022年4月に中止が決まった所属議員側への資金還流について、当時会長代理だった下村博文元政調会長が事務局長に複数回再開を要求したと、派閥関係者が東京地検特捜部の事情聴取に供述していたことが1日、分かった。
日本の検察は確実に起訴ができるまでは捜査に踏み切らない。つまり特捜部が言っているのであれば確実な証拠が出てきたということを意味する。だから、下村さんが「犯人だ」ということになるだろう。ところが還流そのものが事件化されているわけではないのだから(今後特捜部が告発を受けて事件化することがなければ、だが)安倍派関係者が勝手に言っているということになる。
厳密に言えば「下村さんが違法性を認識した上で還流(キックバック)を指示」してはじめて事件になる。まず違法性の認識がなければならず、次に役職上の指示であることが重要だ。
つまりこの記事の目的には少なくとも
- 悪いのは下村さんであるという印象をつける狙いがある
- 特捜部が告発を受けて、新しい証拠を掴んだ上で動き出した
- 何か他に隠したい情報がある。
という3つの可能性があるといえるだろう。あとは報道によってこれを補強してゆけばいい。
国民は「特捜部と聞けばほぼ決まり」という印象を持っている。共同通信はしばしば「この発言は問題になる可能性がある」などとして世論誘導を企てることがある。仮に説1が正しかったとすると「犯人を作ることで事件を終わらせたい」と思っている人がいるということになる。
また、現在「政治と金」の問題の審議が行われている。現在の争点は「政策活動費に対する領収書添付」だ。朝日新聞の調べによれば自民党だけで14億円使われており多くが茂木幹事長に流れているものと見られる。2022年の実績では茂木氏に9.7億円流れているそうだ。領収書がいらないお金自体が既得権になっている。茂木氏としては次の総理を狙うために有効活用したいところだろう。
岸田総理はこの改革を茂木ラインから取り上げて側近である木原幹事長代理に一任した。茂木氏としては面白いはずはない。「生まれ変わる決意」を述べつつもそれは「ただし自分にとって都合のいい生まれ変わり」でなければならないだろう。NHKは茂木幹事長の「強い決意」を伝えているがその真意はよくわからない。あくまでも国民向けには改革者の印象をつけつつ既得権も守ろうとしているように見える。
政治資金規正法の改正をめぐり、自民党の茂木幹事長は、「新たな修正案を今の国会で必ず成立させ、新しい党に生まれ変わる決意で取り組みを進める」と述べ、再発防止策を徹底し、党改革を進める考えを強調しました。
木原幹事長代理はこうした党内の抵抗をかわしつつ6月4日までの法案を委員会採決に持ってゆくというほぼ不可能に近いミッションを与えられている。
当然維新はこの辺りのことをよくわかっているはずだ。細かいことに目をつぶり自民党に貸しを作っておけば後々に何らかのお願い事が通せるかもしれない。馬場代表には「パーシャル連合」の野心も覗く。「末は博士か大臣か」だろう。
そんな中で音喜多俊政調会長は「領収書の保存・公開はマストである」とのレッドラインを引いた。本音では貸しを作りたい執行部と有権者への説明を優先する実務担当者の間にどのような駆け引きが行われるのかも注目ポイントである。
このように考えると「誰か犠牲者を差し出せば世間は納得してくれるのではないか」と考える人がいたとしても不思議ではない。かつて塩谷立氏が置かれていたのと同じ席に下村博文氏が座らされているのかもしれない。
自民党には菅谷一郎氏が告白したように「みんながやっているのになぜ俺(たち)だけが責められるのだ?」と被害者意識が強い。彼らはおそらくは本気で自分達は被害者だと考えている。だが、まあそうはいっても誰かを血祭りにあげなければ国民の気持ちも収まらないのだろうと考えてしまうところに現在の自民党の恐ろしさがある。
ところで、白鳥浩氏は「藪の中・羅生門」と書いている。この表現に違和感を持った人も多いかもしれない。両方とも芥川龍之介の小説のタイトルだが厳密には別の話である。
藪の中はある殺人事件を扱っていて証言が食い違っているという話だ。つまり今回の話は「派閥関係者の証言しかないのだから芥川龍之介の『藪の中』のようだ」という表現が正しい。羅生門は生きるために遺体から着物を剥ぎ取るという別の話である。ただし黒澤明が映画にする時にこの二つの小説を合わせた。羅生門の前で藪の中の話をするという構成になっている。白鳥氏はおそらく映画が念頭にありこのような記述になったのだろう。
いずれせにせよ「真相が明らかになっていないのに対策など立てられるはずはない」という疑念は当然だ。それでも岸田総理が幕引きを急ぐのは支持率向上に寄与すると見られるサミットに間に合わせるためとされている。その後で国会を閉じてしまえばマスコミはこの問題を扱わなくなり支持率は下げ止まると考えているのだろう。一方でマスコミが取り上げれば取り上げるほど自分達の政党に有利になる立憲民主党は1日でもこの問題を長引かせたいと考えている。パーティーをやめると自分の選挙に不利になると堂々と主張した岡田克也幹事長は6月4日の採決など許されるはずもないと改めて主張した。
国民はどう政治に関わるべきか。そしてそのためにはどのような寄付金の介在があるべきか。このように実際に話し合うべきことは多岐にわたるが、こうした問題意識が政治のアジェンダに乗ることはない。政治家たちは明日を生きるのに一生懸命でとても国民と政治のあり方などに注意を向ける余裕はないのだろう。