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憲法第九条が格差を拡大させているとしたら……

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戦後の高度経済成長期に教育を受けたので「戦争はいけないことだ」と教わってきた。しかし、昨今のニュースを見ていると、そうとばかりは言い切れないのではないかという気もする。例えて言えば、部屋を除菌したために耐性菌が生まれ、アレルギーも増えたというようなことになる。
現在、格差が世界各地で問題になっている。格差は経済成長の結果として必然的に起る。お金を手に入れると、そのお金そのものを増やすことができる。これは働いてお金を稼ぐより効率的だ。どうにかして再分配しないかぎり格差は拡大するが、最も大きな再分配は戦争だった。生産設備を破壊することで「等しく冨を破壊する」し「戦費を通じた消尽行為」が起るからだ。つまり、戦争は破壊的消費なのである。
つまり、現在の格差拡大は破壊的消費である戦争がなくなったことで起きているということになる。
戦争がなくなったことでもう一つやっかいな問題が起きている。周縁から中央への人の流入が止まらないのだ。資本主義は中央と周縁がなければ成り立たない。周縁から冨を収奪して中央を安定化させるのが資本主義だ。中央と周縁の構造が明確でないと資本主義が成り立たなくなり、民主主義も崩壊しかねない。つまり、戦争で破壊される代わりに移民が徐々に社会を侵食してゆくのである。
アメリカはメキシコからの人の流れを止められないし、ヨーロッパはイスラム圏からの人の流れを止められなかった。移民の流入と格差の拡大は民主主義を内側から破壊する。敵の存在は民衆をまとめるが、敵の不在は民衆を混乱させ、別の戦いを生み出すのである。
例えば、イスラム圏で民主主義を発展させることには無理がある。イスラム圏は周縁であり、収奪する周縁を持たないからだ。かつて世界は、中央と周縁を複数持っていた。例えば中華圏があり、インド世界があり、ペルシャがあり、オスマン帝国があった。それを欧米世界がすべて統一した経済圏にしてしまったところからこの悲劇は始まったと言えるのかもしれない。
戦争は至る所で起っていたがやがて止まった。消尽すべき冨がつきてしまうからだ。ある世界が崩壊しても別の世界が勃興する。こうして人類全体が滅亡することはなかった。しかし、現在では世界は一つなので、一つの文明が滅びれば、世界全体が大混乱に陥る。
経済圏が大きくなることで戦争は拡大した。第一次世界大戦は世界中の植民地を持つ国同士が争った。その中心だったヨーロッパは荒廃した。その後の第二次世界大戦でヨーロッパは世界の中心から陥落する。その反省から生まれたのが現在のEUにつながる共同体だった。「戦争はいけない」ということになったのだが、その理由は人道上のものだけではない。経済的な理由が大きかったのだ。現在では「安価で効率的に地球が破壊できる」ようになった。人類を何度でも滅亡させられるだけの武器を得てしまった。だからもう、大掛かりな戦争はできない。
「戦争はいけない」という当時の空気が結実したのが、現在の憲法の前文と憲法第九条だ。その意味では、現行憲法は世界遺産なみの価値を持つ。当時の社会が生んだ偉大な知恵であり、金字塔だ。だが、もしその結果格差が拡大し、民主主義を根本から脅かすようになったとしたら、どうだろうか。擁護派の人はそのことについてよく考える必要がある。
憲法第九条の擁護派は同時に弱者への分配と格差の縮小を求めている。実はこの二つは矛盾するのだということが分かる。戦争がない場合、持っている人は「治安が怪しくならない程度」にしか分配はしない。実際に彼らが自分たちの資産を消尽するのは、破壊的消費だけなのだ。
そもそもなぜ私たちは蓄えるのだろうか。それは、来るべき破壊的な消費に備えるために力を蓄ているだけなのかもしれない。それは理屈によるものではなく、私たちが本能的に持っている性質のためだといえる。人類の歴史は闘争と生き残りの歴史だった。勝ち残り生きてゆくための知恵が現代の我々を苦しめているのかもしれない。