Twitterで、憲法を改正するんだったらどんな項目がいいかというようなタグが流れてきた。最初に面白半分で考えたのは、国会議員に結果責任を負わせるように憲法を改正するというアイディアだった。
だが、いろいろ考えているうちに、全く別のことが気になり始めた。国会議員は自分たちで始めた戦争にどのような結果責任を取るのかという問題だ。今の制度下では国会議員はいかなる責任も取らなくてよい。実際に責任を取らされるのは現場の自衛隊員である。例えば、サイコパスが首相になれば、自分たちの政治的利益のために自衛隊を政治利用することができてしまうわけである。
では、国会議員を戦場に送り込んではどうかと思ったのだが、これはこれで別の問題を生み出す。つまり、軍人が政治家になるということになってしまうのだ。これは軍部の膨張を招くだろうし、作戦の失敗の責任を回避するために課題な予算を要求するということになりかねない。戦前の失敗が繰り返される。
ここまで考えてきてふと思った。自衛隊員(あるいは軍隊)が庶民院(つまり衆議院のことだ)の言うことを聞くのはなぜなのだろうか。平安朝の昔、武力集団が貴族に従っていたのは、彼らが貴族より下等な存在だと見なされていたからだ。だが、その状態は長くは続かなかった。武力集団はやがて武士となり、貴族の影響を排除して幕府政治を始めることになった。現在の自衛隊は国会議員より格下だと見なされているわけだが、その状態が長く続くためには保証が必要である。
軍隊は武力蜂起ができる。現在の制度下で抑止力として機能しているのは、実は米軍だろう。もっと端的に言えば、米軍が持っている核が自衛隊の暴走を抑えているのだ。
もっと、考えを進めてゆくと、日本で非軍人が統治を担うようになってからの歴史は、わずか70年に過ぎない。もともと天皇家は武力集団だったわけだし、武士は私兵集団が軍事組織化したものだ。明治維新になっても軍隊は国会や内閣の指揮下には入らなかった。もともと薩長土肥は武力集団なので、藩閥政治が終わるまでは武人政治が続いていたことになる。
自民党を中心とする庶民院の人たちが、武人政治の影響下に入らなかったのは、米軍が日本の軍事組織を解体し、藩閥からなる貴族社会を崩壊させたからだ。故にエクストリームな人たちが言っている「本来の日本の政治」というのは、自民党や民進党などの政党が支配する政治ではない。政党は庶民から権力を与えられているに過ぎないので、その権威を否定してしまうと、庶民院そのものの権威が喪失してしまう。つまり、それは民主主義を放棄して武人政治に戻るということなのだ。
憲法第九条を奉っている自称リベラルな人たちは夢想的だ。だが、教育勅語さえ与えていれば国民は自分たちに従うだろうと考えるのも同じように夢想的である。軍人たちは自分たちなりの利益があって天皇制を支えているわけで、決して黙って犠牲になろうとは思っていないはずなのだ。軍人が特攻したのは、パニック期の例外現象なのであって、常態ではない。国家総動員態勢もせいぜい1940年頃から5年程度の異常事態にすぎない。
安倍首相の外祖父は「革新官僚」だった。これは官僚による革命思想だが、5年程度しか保たなかったことになる。孫も革命を指向しているようだが、この権力は正当性の根拠のない革命と言える。せいぜい10年程度しか保たないのではないだろうか。
天皇が元首であり、その権威の下で文民が軍隊を睥睨するべきだなどという人がいるかもしれないが、天皇は反徳川勢力の武人に担ぎだされた君主に過ぎなかった。形式上は指揮官なのだが「自分の兵隊」を持っていない存在に過ぎない。もし、天皇を実行力のある権力にしたいのなら、天皇を軍人にし、人事権を掌握させなければならないことになるだろう。
つまり、政党が絶対的な権力を持ったまま、天皇にも権力を掌握させず、軍隊を保持するなどということはとてもできそうにない。欧米のいくつかの国では文民統制が機能しているとはいえ、それはきわめて例外的な姿だ。少なくとも日本にはそのような歴史はない。
例えば、アメリカではなぜ軍隊が政治の実権を握らないのだろうか。それは、州には兵隊がおり、連邦軍とは別建てになっている上に、国民が民兵組織を作って政府に対抗することが憲法レベルで認められた共和国だからだろう。その上、軍隊は国民の税金で食べさせてもらっている。予算が止められてしまえば活動ができないのだから、民衆に歯向かうのは得策ではない。国民はスポンサーなのだ。
最近「自民党が参議院選挙で勝ったらどうなるか」という検索キーワードで流入がある。普通に考えると憲法改正議論が盛んになり、いわゆる「立憲主義」が破壊されてしまうという未来が予想できる。自民党の政治家は、政権を放逐した国民に報復したいと考えており、民主主義を敵視している。と、そこまでは間違いがなさそうなのだが、これは同時に自民党が依って立つ権力の源泉を否定することになる。つまり、これは過渡的状態だということになるだろう。
もし仮に左派が心配しているように貧乏人が軍隊に駆り出されるようになったらどうなるだろうか。不満分子に武器を与えるというのと同じことだ。彼らが軍隊内で出世すれば、政権にとっては危険な状態になるだろう。逆に二等兵レベルをこうした人たちで構成すれば、軍事的なオペレーションが不安定化するに違いない。
そこから先に予想されるのは、新しい権力構造の創出だ。多分、その中心にいるのは自民党ではないだろう。つまり、政権交代のない権力構造を作ろうとすると、別の非民主的な形で政権交代が起ることになるのではないだろうか。
だが、このようなことは起りそうにない。軍人が支配する体制のコストは大きい。生産性が著しく阻害されることになる。典型的な例が韓国だろう。韓国はかつて軍人大統領が支配する社会だったが、民主化運動が起こり治安が維持できなくなった、韓国が先進国の仲間入りをしたのは、民主的な政権ができてからだ。同じことは北朝鮮でも観察できる。タイやエジプトのように軍隊が民主主義の欠陥を補う社会はなかなか先進国入りができない。
近視眼的に見れば、自民党が勝つことは立憲主義や民主主義の行き詰まりだと言えるのだろうが、結局のところ、国民が持っている潜在的な成長力を統治者が活かしきれなくなっていることを意味しているに過ぎないのだろう。そこで国家社会主義的(あるいは国民総動員的)な発想での経済成長を模索してしまうのだ、といえる。自民党の憲法草案はその意味で大局観を失っていることになる。