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どうしてみんなが騒いでいるか理解できない 森喜朗氏は今日も舌好調だった

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最近「日本人は自分で物事を考えたり判断したりするのを怖がるようになった」と感じる。だがその理由がよくわからない。

政治家もそこは同じのようだ。森喜朗氏が文藝春秋で塩谷立氏をスケープゴートにするに至った経緯を話している。もともと善悪の判断がつかない上に視野狭窄に陥った安倍派幹部たちは「国民の怒りを収めるためにはスケープゴートを立てるべきだ」と考えるようなっていったようだ。ただどうもインタビューの様子がおかしい。森喜朗氏は頼られてどこか得意げなのである。

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最近、日本人は自分で物事を考えたり判断するのを怖がるようになったと感じる。

テレビは殺人事件やロシアのウクライナ侵攻については扱えるがイスラエル問題についてはあまり扱わない。アメリカが人権蹂躙・抑圧の側に立っているため「善悪」がはっきりしないためだ。

またアップルのプレゼンテーションがプレス機で楽器を潰した件についても「日本人だけが怒っている」のではないかと気にする人が大勢いた。ワールドスタンダードとまでは言わないがアメリカンスタンダードでは「自分の気持ちに正直になり善悪の基準を持つ」ことが大切だが同調圧力の強い日本人は「アメリカ人と同じ気持ちでなければそれは正しくないことだ」と感じるようである。

おそらく自分で文章を読んで善悪を判断しようと考える読者は共感しないだろうが、自分が考えた結果が周りの正解と合わないことを気にする人が多いのもまた実情だ。

結果的に日本人は原因ではなく結果にばかり注目するようになる。今回の安倍派の政治と金の後始末問題にもよく現れている。彼らは国民が騒いでいる(結果)は知っている。だがなぜその結果が生まれたのか(原因)については考えようとしない。

安倍派の裏金スキームはおそらく森喜朗氏が育てた制度だ。だが、彼はそれが悪いことは思っていない。これは安倍派幹部たちにも言えることである。安倍派幹部たちはさらに自分なりの善悪の基準を物差しにして物事を決めることすらできない。

だが彼らはどうやら「国民が何か怒っている」ことは理解でき、それが自分達の将来の地位に影響を与えかねないことも理解した。そこで「誰かが犠牲になれば問題が無かったことになるのではないか」と考えたようだ。危機に陥った集団思考の恐ろしさを感じる。

そこで、萩生田光一氏が代表して森喜朗氏に「塩谷立氏を説得してほしい」とお願いの電話をかけた。森喜朗氏は文藝春秋のインタビューでこのエピソードを披瀝している。「今でも頼りにされているオレはすごい」と考えたのだろう。どこか得意げである。

岸田総理はこの問題の早期解決を茂木幹事長に指示した。だがおそらく岸田総理も茂木幹事長も国民が何に怒っているのかという原因には興味がない。結果的に政治資金の透明化は「なんちゃって透明化」に終わりそうだ。

また、安倍晋三首相が選挙の前に候補者に100万円を配り、候補者がこれを簿外で処理したらしいことがわかっている。この問題は既に時効を迎えているが常習的にこのようなことが行われていたのは間違いがないようだ。

では国民は一体何を怒っているのか、と考えてみた。どうもここがはっきりしない。

原因は「国民実感とズレた決定が次から次へと出てくる」ことへの苛立ちにあるのではないかと思う。このため政治家は「企業や利益関係者に意思決定を歪められているのではないか」とうっすらと疑っているのではないかと思う。

実際に政治家が国民の期待に寄り添わない意思決定を繰り返すのは世襲化が進んでいるせいかもしれない。例えば、伊藤環境大臣の水俣病被害者の「処理」を見ているとよくわかる。岸田総理にも言えることだが、彼らは「国民の声を真摯に聞いているオレ」の絵柄を作りそれをマスコミに報道させることを政治=選挙運動と考えている。彼らは生まれた時から政治家の息子であり「選挙とはそういうものだ」との教育を受けている。だが、実際に国民感情を理解するつもりはない。それは選挙にはなんの影響も与えない。単にノートを取り「聞いているふり」をすればいいのだ。善悪基準の希薄化の原点はおそらくこの辺りにあるのではないか。どう判断するかよりもどう見えるかが重要なのだ。

と考えると、おそらくこの問題の落とし所は政治資金改革ではないのだろう。国民は直感的に「政治家は国民の方を向いていない」ということに気がついている。だが、それを理解したところでどうなるものでもないとあきらめてもいる。あきらめてはいるがやはり何かモヤモヤしたやるせないものを感じているのだろう。

ただ国民もこの感情に自信が持てない。モヤモヤとしたものを感じてはいるがマスコミが「政治家と国民の意識が乖離しているのが問題だ」と断罪してくれるわけでもない。つまり自分が持っている感覚がみんなの感覚と一致しているのかがわからないため自分の意見として確定させられないのだ。有権者がオーダーしないのだから政治家が答えないのは当たり前である。

ただ、ここまで考えて「それをこのブログで問うても意味はないんだろうな」と感じた。おそらくマスコミの情報に飽き足らずブログを読んでいるような人は自分なりの意見がしっかり持てているかそれを努力している人だろう。こういう人たちは自分の感覚の主人は自分であるべきであるということことをきちんと理解しているか最初からそれが当然だと考えているのだろうから「自分が何を考えるべきか」を他人に委ねている人がいるなど想像もできないとしても不思議ではない。

いずれにせよ「他人がどう考えるか」を気にする人が多数派を占めるこの国では政治と金の問題の解決にはおそらく長い時間がかかるだろうと感じる。そもそも自信を持ってどうあるべきかを語れる人がいないからである。

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