麻生太郎元首相が自民党の集会で「テレビで90歳のお年寄りを見たのだが、いつまで生きているつもりだと思った」という発言をした。これは許せないと思った。正確にはこう言ったらしい。
「90になって老後が心配とか、わけのわからないことを言っている人がテレビに出ていたけど、いつまで生きているつもりだよと思いながら見ていた」
資産が高齢者に張り付いており、医療費も高止まりしている。だから、この発言は示唆に富んでおり、発言の一部を取り上げて批判すべきではないなどという人がいる。確かにこれらは事実であり、対応が求められる。しかし、生きている人が「死に急ぐ」ことがソリューションになるとは思えない。そもそも政治家なのだから「解決策」を出すべきで、テレビの前で評論家気取りになって貰っては困る。
90歳になって「老後とは何事」という人もいるようだ。しかし50歳で老後が心配だったのが、ある日霧が晴れたように「もう老境なのだからいつでも運命を受け入れられる」などとは思えないものではないだろうか。
問題なのは、この手の発言で「ああ、そうかもな」と思う人が出てくるところだ。実際に「文脈を読めば、それほど過激な発言でないことが分かるはずだ」などと擁護する人もいる。結果的に、人が死ぬことで自分たちがおいしい思いができるとか、自分たちが苦しいのはのうのうと生きている年寄りのせいなのだと考える人が出てくる訳だ。政治家がさもしい根性を国民に植え付けているとことになる。
政治家が国民の困窮を誰かのせいにするという手口が横行している。トランプ候補はムスリムやメキシコ人が社会矛盾を生み出しているとあおり、イギリスでは移民があなたの仕事を奪っているからEUとは距離を置くべきだと主張する政治家たちがいる。いずれも憎悪を自分たちの支持に結びつけようとしている。麻生元首相にも同じ意図があると言える。高齢者を悪者にすることで自分たちの力不足と弱々しさを糊塗しようとしているのだ。
こうした人たちは民主主義を破壊する先導者と言える。国民の統合を破壊する分断政治家というべきで、こういう人たちがいつまでものさばっていてはいけないと思う。悲しいことに野党政治家の中にも「趣旨には同意する」などという人がいるそうだ。根本的なところで感覚が狂ってしまっているのだろう。