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「日本の心を大切にする憲法改正案」は何も解決しないだろう

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最近、大衆の暴力について考えている。ポイントになるコンセプトは「正義」と「課題と自己の癒着」だ。今回は「憲法改正」と問題解決について考えてみたい。
今度の参議院選挙の争点の一つは憲法改正だと言われている。憲法の中にはいろいろな争点があるわけだが、中でも大きいのは「伝統的な家族の価値観」への復帰と人権の制限だ。改憲派は「アメリカから入ってきた個人主義のせいで日本人はわがままになった」と考える。家族が支え合うようになれば、福祉の膨大な費用は抑えられ、老人は安心して消費ができるようになるだろうと考えているのかもしれない。つまり「人権さえ制限すれば、すべての問題は解決する」というわけだ。
この「他人が画一の構造に従えば全ての問題はたちどころに解決するのに」という思考は、権力者だけのものではない。実際にはかなり頻繁に観察できるありふれた態度なのだ。
あまり知られていないのだが「ご近所同士の助け合い」という運動が、かなり盛んに行われている。単に「助け合いましょう」というだけでなく、フォームを決めて、それに記入してもらうのだ。それをなぜか「冷蔵庫」に貼っておく。誰が始めたのかは不明だが、不思議なことに安心カード・冷蔵庫で検索すると多くの事例が見つかる。「みんなが同じカードを作れば問題はたちどころに解決する」と考えているわけである。
こうした見守り活動はNGO単位で行われる。市区町村は職員を割けないので「地域の協力を得る」という名目で、講師への謝礼やパソコンなどの備品を整備している。
一見よさそうな活動なのだが、内情は問題が多い。そこに「助け合い」という正義が生まれてしまうのである。「正義」は人の視界を曇らせる。
あまり組織運営に長けていない人が「自己実現」のためにいろいろな発案をし、それを他人に押し付けるということが起る。自治会などの住民持ち回りの団体などは良いターゲットになっているようだ。組織運営に長けていないのに、他人に「自分のすばらしい考えの布教」を押し付けたりするので、軋轢が起きてしまう。最悪の場合にはご近所同士の派閥化や軋轢といった深刻な影響もでかねない。女性が「近所のおしゃべり」で連絡を密にとるのに、男性がなぜ「カード」にこだわるかは不明だ。
いったん対立が生まれると「個人情報が」などという理由で協力しない人が出てくる。「単に嫌だ」とは言えないので、いわゆる「個人の権利」を盾に、押しつけを避けようとするのだ。すると「アメリカから輸入された個人主義が」と考える人が出てくるのだろう。
「社会正義」に関わる運動は高齢者の自己実現の場として作用する。家庭で疎んじられていた主婦が参加することもあるし、定年後のお父さんの「社会参加の場」になることもある。日本人は水平な人間関係に馴れていないためにどうしても人を「従わせよう」とすることになる。垂直な人間関係を作りたがるのだ。若い人たちは古いやり方を押し付けられた上に(間違ってもITを活用しようという人はいないので、連絡はFAXや回覧板で行われるし、紙やプラスティックでカードをつくることになる)、活動を礼賛することを求められる。自己実現のために搾取されてしまうのだ。
この帰結は簡単だ。若い人たちは社会活動に参加しなくなってしまう。人間関係がぐちゃぐちゃしていて、問題解決には全く関係がないもめ事が蔓延しているのだから当然だ。
「美しい日本の心」とは何かと考えると次のような要素を列挙することができる。

  • 思い込みが激しく、自己と課題が癒着している。
  • やたらと垂直的な人間関係を作ろうとする。
  • 新しい技術や考えを受け入れない。

他人が言うことを聞かないのは「アメリカから入ってきた個人主義」のせいではないことが分かる。故に「憲法のせい」で「日本人がバラバラになった」わけではない。背景にあるのは「多様性が生み出す複雑さ」なのだが、それを作り出しているのは「画一性」指向である。実はマネジメントが困難になるほどの多様性でもないのだ。
ではなぜ画一的な硬直さが生まれるのだろうか。それは「自分が頭で考えたアイディア」を無条件に良い物だと信じてしまうからだろう。リアリティチェックもなく、何か不都合が起れば「運用が悪かったせいだ」と考えてしまう。そして制度やフォーマットの異議があると、それを建設的な提案だとは考えずに、自己が否定されたと考えてしまう。
子供の頃から自分の意見を言うことに馴れておらず、従って否定されるという経験をしてこなかったことが問題の根幹にあるといえるだろう。故にこうした姿勢は「日本人特有」と言える。アイディアを無視されたり、否定されるのが嫌なのだ。
さて、かなり回り道したのだが、この状態で憲法の改正に着手するとどんなことが起るだろうか。原因を取り違えているわけだから問題は解決しない。するとさらに画一化を進めるべきだということになる。日本人は大局を見るのが苦手なので、修正は細分化するだろう。その中で流派が作られ(原因はイデオロギー対立ではなく「私が言ったことを否定した」とかそんなことだろう)最終的には誰も満足せず、細かな修正で全体のつじつまが会わない、めちゃくちゃな法体系が作られるか、流派対立で何も決まらないかどちらかに落ち着くのではないかと思う。
その代表例が憲法第九条だ。誰が見ても自衛隊は違憲だが現実には必要とされている。アメリカが役割を後退させれば必要性はさらに大きくなるだろう。だが、憲法第九条擁護は多くの人にとって自己実現の道具となっているから触れられない。加えて改憲派の中には「天賦人権は否定されるべき」と無責任な発言を繰り返すせいで、憲法第九条の改正は事実上不可能になっている。
「問題解決に着目して冷静に話し合おう」と書くのは簡単なのだが、どのように問題解決指向に持ってゆくべきかと問われると、全く答えを見いだすことができない。