右派と左派はいつも対立していてお互いを口汚く罵り合っている。だが、よく考えてみると何が右派と特徴付け、何が左派を特徴づけるのかよくわからない。にも関わらず私たちの中にはかなり具体的な右派や左派のイメージがある。これはいったいどういうことなのだろうかと考えてみた。
だが、考えを進めると、この対立構造は現在の権力者にとってかなり都合がよい形になっていることが分かる。反安倍派が「戦争法反対」と叫べば叫ぶほど、安倍政権が喜ぶのだ。
手始めに、右派や左派が好みそう(あるいは嫌いそう)なアイテムを書き出してネットワーク図を作ってみた。右派と左派は対立しているように見えるので、いくつもの対立事項が見られる。だが、実際には政治的ポジションはこれだけではないのだ。権力より・反権力よりという軸の他に、保守・進歩という軸がある。合計4つのポジションがあり得る。政府に頼らない(つまり、権力・反権力があり得ない)という意味ではあり得るポジションは3つだ。
明白に見える右派左派の対立基準は実は曖昧だ。左派は「権力は自分たちを裏切る」と考えておりより平等な分配を求める。そして権力は戦争や放射能のような穢れをもたらすと考えているようだ。その点はかなり明白である。
一方、右派は伝統的ではっきりした権力構造ができれば、自分たちがその上層に行けるという根拠のない自信を持っているようだ。だが、実際は政権が提示したアジェンダに追随し、反対する人たちを「下層のもの」として蔑視することで仮想的な優越感を持っているに過ぎない。このため、彼らには主体的な好き嫌いがない。結果、現在のアメリカが推進するTPPや原発は好きだが、アメリカがかつて日本に「押し付けた」憲法は嫌いという一貫しない姿勢を示す。右派が経済的にどのような主張を持っているかということも明白ではない。競争して勝ち取るのが正しい姿勢だと考えているのかもしれないが、様々な理由で「あるべき分配が制限されている」と考えるのかもしれないのだ。
実際には右派も左派も自由主義者や進歩主義者との間に対立点を持ち得る。伝統的な構造が自由な経済を阻害すると考えている人たちは保守主義者としての右派と対立しうるし、成果主義と競争主義という点では平等な分配を求める左派と対立しうるだろう。実際に、アメリカの左派はリベラルと「大きな政府」対「小さな政府」で対立している。こうした違いが顕在化しないのは、政府や権力がこれを対立構造として演出しないからかもしれない。グローバリズム対反グローバリズムという対立軸を作ると、右派も左派も反グローバルということになるのだが、右派はグローバリズムには反対しない。左派が主に反対しているからだ。
ここから、現在の政治的対立というものが、自発的に作られたものではなく、なんらかの演出が加わっている可能性が浮かび上がってくる。
左派が革新的かと言われれば、そこにも疑問がある。左派集団はきわめて固定的で融通の利かない権力構造を作りがちだ。その意味では本質的に保守的な右派とは違いがない。「人権原理主義者」みたいな人たちが、口汚く右派を罵ったり、運動の裏切り者を許さないという姿勢は「リベラル」とは言えない。例えば、左派は表現の自由派と対立している。マンガ好きの幼児好みがフェミニストから攻撃を受けるのだ。左派に取って、表現の自由や人権というのは美しいものであって、オタクのマンガには当てはまらないのである。その意味では左派は保守的と言えるだろう。
右派と左派の対立は、権力に迎合するか、それに反発するかという対立に過ぎない。イデオロギ対立ではなく部族対立に似ている。左派の存在が右派を安定させているのだ。
この部族対立は何のために存在するのだろうと考えたときに、舛添人民裁判は良い事例になる。舛添さんの「違法ではないが不適切な使い込み」は「ずるい」と見なされた。しかし、こうした使い込みは安倍首相も山尾議員もしているものということが分かっている。彼らが攻撃されないのは、首相や議員がどちらかの部族に属しているからだ。自分たちが安倍首相を「ずるい」と攻撃すると敵を利すると考えるのだろう。舛添さんはどちらの部族にも属していないために、どちらからも攻撃を受ける立場にあった。つまり、敵の存在だけが、大衆の容赦ない攻撃から権力者たちを守っているのだということになる。対立構造が攻撃を緩和するのだ。
また、利権構造だけが政治を支えているのではないということになる。利益の分配ができなくても「正当な社会の一員である」という幻想を与えることができるわけで、これも立派な利益分配だということになるだろう。と、同時に「権力に丸め込まれない」という自己意識も帰属意識を生む。
この構図は自民党にとってはきわめて有利だ。仮に有権者の意に添わないことがあっても、意識を「下の人たち」に向けることができる。一方で民進党には不利だ。反抗する人たちの力を得て権力に返り咲いたとたんに彼らから離反しなければ権力が意地できないからだ。
しかしその影でもっと不利なのが構造改革をして国を再活性化しようとしている人たちだろう。利益分配と不毛で問題を解決しない左右対立にばかり目が行き、構造改革のような重要なテーマが忘れされれてしまうからだ。実際に経営感覚がある議員の撤退なども起きている。このブログのような小さなプロジェクトでさえも実感できる。どちらかを叩き、無関心を嘆くとページビューが集まるが、その他の話題に関心を持つ人はあまりいない。対立と闘争は人を夢中にさせるのである。
この話題を書いているうちに、日本の国家神道原理主義はアメリカの福音派を研究した誰かが意図的に作ったのではないかと考えるようになった。証明はできず、いわゆる陰謀論の類いだが、国家神道原理主義は政治的なイノベーションではなくアメリカの模造品なのではないかという疑いだ。
原資主義者に好き勝手な発言をさせることで左派に対立点をを与えることができる。左派は決して主流にはならないが(もともと集まる動機が反権力なので主流になりようはない)右派たちの意識を左派にとどめておくことができる。もし、人工的な強化がなければ、社会民主党や共産党に代表される日本の左派は老衰死していたかもしれない。左派がなくなれば対立軸が失われ、自由主義者と保守主義者のような対立が起る可能性すらあるし、庶民の怒りが安倍政権に向かう可能性もある。誰が作ったのかは分からないが、実にうまくできた仕組みだなあと思ってしまったのだ。