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日本保守党の権威主義的ポピュリズムはSNSをどのように利用しているか

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先日、日本保守党の分析記事をご紹介した。低学歴の人が多いと書いたのだが大学院卒の人も多く含まれているとの指摘がある。これについて日本保守党に注目している人から飯山陽さんがどのようにSNSを活用しているのかという指摘が入り興味深かった。日本で生まれつつあるポピュリズムの質と現在地がわかる。破綻しそうな主観を学術的な権威で守ろうとしているようだ。科学や政策論争とは真逆のアプローチなのでSNSでの真面目な政策論争は信者たちの攻撃対象になる。

アメリカの権威主義的ポピュリズムは体制破壊にまで病状が進行している。あたかも集団催眠のような状況で信者たちから大切な価値とエネルギーを容赦なく奪ってゆく。一方、日本の権威主義的ポピュリズムには今の所そのような影響力はない。

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SNSのXには特徴がある。有名なアカウント(特になんでも構わない)に対してコメントを続けるとたまに反応が返ってくる。反応はポジティブなものであってもネガティブなものであってもいい。すると閲覧数が飛躍的伸びる。反論の方が相手の感情に触れやすい。議論が始まるとそれに反応する人が出てくる。また単純に争いごとを見るために観客も集まってくる。

SNSはもともと多極的民主主義を支援するためのツールとしての利用が期待されていたがユーザーは提供者が期待するような扱い方をしなかった。人々の使い方にも問題はあるが実はアルゴリズムそのものに言い争いを誘発する要因が組み込まれている。フリーライドという経済合理性があるのだ。

議論は収束する必要はなくむしろ延々と平行線を辿った方が良い。アルゴリズムによって閲覧数が伸びてゆく。だからXが議論に使えるなど期待しない方がいい。日本保守党に注目している人ある人は飯山さんはこの使い方が上手だと言っている。

著名人の中には横レスを嫌う人がいる。学校の先生などの経験者が多く自分のコンテクストに従って情報発信をしたいと考えているのだろう。また自分の主張は基礎から理解してもらわなければならないと考える傾向がある。だが、実はXは横レスを誘う仕組みになっている。言論ツールではなくあくまでも無料の広告媒体でありプラットフォーム提供ビジネスにすぎない。自分達の主張を広めるためにはここから自前のプラットフォームに誘導しなければならない。

ただ指摘はこれだけでは終わらなかった。飯山氏は支持者たちは「自分の主張する難しいことはわからないだろう」と考える相手に「引用」などを利用して説得力を与えているという。つまり飯山氏がまとうアカデミックな雰囲気が人々を惹きつけているというのだ。この主張は興味深い。実はアカデミックな訓練を受けた人とそうでない人が支援者の中に入り混じっていることがわかる。アカデミックな訓練を受けた人たちはそうでない人のことを冷静に見ている。

もちろんSNSでこうしたやり方を採用しているのは飯山氏だけではない。例えば玉木雄一郎国民民主党代表も同じように出典論拠を明らかにした議論をやっている。どこに違いがあるのか。ベクトルが逆になっている。

玉木氏は大蔵省・財務省出身であり日本の経済の持続可能性に対して憂慮している。そこで論点を明らかにした上で「適切な負担なしには日本の財政状況は厳しくなる一方だろう」と主張する。つまり主張が先にありその主張を論拠によって裏づけようとする。ただしこれは主観とは合致しない。

日本保守党はこれとは真逆のアプローチを取る。「自分達は正当に報われていない」という人たちがいる。そして彼らの気持ちに合致するメッセージを先に作り学術風に見える証拠を作っている。大衆の気持ちに合わせてメッセージを加工するやり方をポピュリズムと定義すれば日本保守党のやり方はポピュリズムである。そしてその敵意はまず「SNSで自分達の主観と合致しない主張をする」人に向かう。だから玉木氏は日本保守党の支持者から攻撃される。そしてコミュニティの規模が小さい方がベネフィットが大きい。大きなコミュニティにフックアップしてもらい露出を増やすことができるからだ。

SNSでよく「エビデンス」や「論破」という言葉が使われるようになった。「論破」は子供たちの間でも流行語となっている。本来の学術上、論題は「間違っているかもしれない」という前提で提示される。そして結論が主観にあっているかどうかは必ずしも定かではない。ところが現代の議論ではまず主観が重要視されその主観に合致するエビデンスのみが採用される。そうでないものは「論破」されブロックされてしまう。彼らが守りたいのは主観である。合意形成も問題解決も求めていない。

ポピュリズム化した議論空間で本物の科学的アプローチや政策論争が嫌われるのはベクトルが真逆であるからである。

ポピュリズムと言うとなんとなく悪いものように思える。だが必ずしもそうとは言い切れない。確かにアメリカではこの権威主義的ポピュリズムが社会を破壊し始めている。だが日本にはそこまでの広がりも切実さもない。せいぜい日頃のうさを晴らしたい人たちの気軽なエンターティンメントのようになっている。さらにこうした政党の作られ方も実はそれほど新しいものではない。

日本共産党も元々はマルクスの教えをもとにしているマルクス教政党だ。自分達は正当に評価されていないと考える都市のインテリたちを惹きつけるために共産主義が利用された。だがその教えは徐々に独自のものとなってゆく。ソ連はなくなり中国とも決裂している。今の日本共産党の教えは日本で発達した独自の宗教である。

さらに仏教という外来の非常に科学的な宗教の一派である日蓮正宗の信徒集団から分離した創価学会を母体にする公明党も同じように都市に出てきた労働者たちを支持母体にしている。彼らも日蓮正宗とは分離(破門)している。

帰属する土地を持たず「自分達は報われていない」と感じる都市住民に宗教的権威を利用した権威付けを与えるというのはむしろよくことなのかもしれない。日本保守党の場合元々のご本尊は自民党の安倍晋三氏だったが自民党が宏池会に揺り戻したことで元々の母体から切り離された。これも日本共産党や公明党とそっくりなのだ。

日本保守党は従来は国家神道に端を発する「保守主義」が宗教的権威づけの柱だったが、ここにアカデミックな雰囲気を付け加えたことで支持を広げつつあるといえるのかもしれない。

どういうわけか日本には政策をベースにした政党ができない。代わりに外来の教えを利用した信徒集団のようなものが現れて徒党を組む集団が時折現れる。

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