今回は補欠選挙をテーマにして各政党について書いている。最後は維新になる。本来なら書きたいことはたくさんあるのだがなんとなく「やっつけ仕事」になってしまいそうだ。今後の政局ではさほど重要なプレイヤーにやはりなりそうにないからだ。
だが、ポテンシャルはあっただけに、なぜ日本の政党は「包紙マーケティグ」以上のところに行けないのかは気になってしまう。
維新は大阪の地域政党という側面と新しい政策を打ち出す政党という新しい側面がある。個人的には発信力がありそれなりに政策が緻密な音喜多駿氏に期待していた。だが結果的に見ると「やはり包紙マーケティングに終わってしまった」という印象がある。
包紙マーケティングとは商品開発に踏み込めないマーケターを揶揄した言葉だ。特に贈答品ではよくあることだが、何を持ってゆくかではなく「伊勢丹なのか三越なのか」ということが重要視されることがある。地方には地方だけのデパートがありその包紙をありがたがる人もいるだろう。所詮商品の本質ではない「包紙」なのだが日本人にとってはこれも重要な要素なのだ。
準備が遅れた長崎3区で勝てなかったのは仕方ないにしても地元でも金澤結衣さんを押し上げられなかった。前回の得票数が44,882票だったそうだが今回は28,461票だった。つまり減っているのだ。
プロは選挙情勢と取材を見ながら敗因を分析するだろう。大阪・関西万博を通じて改革政党から単なる昭和型土建開発政党だったということが露見してしまった上に、自民党の代替勢力(つまり受け皿)としての票も立憲民主党に流れた。だが立憲民主党の得票数が伸びているわけでもないのだから、やはり維新が見限られているといえそうだ。
だが今回の選挙キャンペーンを見ていて「本当に考えるべきところはそこで鼻いいのかな」という気がした。
元々、維新は自民党のアンチテーゼとして生まれた政党だった。日本は中央集権型の国家だが産業構造が複雑化し単極的な構造では国家運営ができなくなっていた。バブル崩壊後次の国家モデルが提示できないこともあり、アメリカやドイツのような分散型・多極的な統治体制に変換してゆこうという大前研一氏の理論が発想のおおもとになっている。つまり中央集権(自民党)と地方分権(新興政党)という対立軸があった。大阪ではこれが東京対大阪という地域対立に矮小化されゆく。「中空構造の呪い」で散々触れたように「呪い」のために全体の統治構造について考えることを許されずどうしてもライバル同士の争いに夢中になってしまうのが日本人だ。
アメリカでは現在でもこの分散型の議論が進んでおり、大前氏の時代から進歩氏している。まずオバマ政権時代には都市が競い合う多極化構造提案が生まれ、前回ご紹介したグレン・ワイルを代表とするサイバー民主主義へと進化してゆく。サイバー民主主義はAIや分散志向などのコンピュータ支援を組み入れることにより民主主義の良さを保ったまま多極的な意思決定ができるように改良してゆこうという思想だ。
これを形式的に導入したのが大阪維新だ。だが地方分権を表面的になぞったものに過ぎなかったため最終的には「国のお金を使ってカジノを整備しよう」という昭和型の開発志向に堕落していった。
今回、維新は0歳児投票権といういっけん新しい主張をしている。だが、元になったドメイン投票方式は1986年に着想されている。これはコンピュータやITネットワークが導入される以前の発想である。1980年代といえば全国の郵便局に「ニューメディア端末」が置かれていた時代だ。ニューメディアは永遠の政府主導の実験に終わりやがてインターネットに取って代わられることになる。
維新の今回の主張はインターネットが次の世代に進もうかとしている時代に「ニューメディア端末がナウいんだぜ」といっているような感覚で、絶望的にズレているとしか言いようがない。
なぜこうなるのかは明白だ。
アメリカでは民主主義は本当に正しい統治方法なのかと疑問を持つ人がいて常にもっと良いものなのかという探索が進んでいる。ところが日本人はこれを「新しい流行」としかとらえない。さらに新しいものを導入しようとすると抵抗勢力が湧いてくるので一向に社会改革が進まない。最後に「中空構造の呪い」があり統治機構については誰も触れようとしない。そうこうしているうちにアメリカと日本の差は大きく開いてしまうのだ。
日頃のSNSでの発信を見ていると音喜多駿氏はかなり優秀なマーケターであることがわかる。だがやはり「日本支社・東京支局」のマーケターに過ぎず会社のコンセプトにまで影響を及ぼすことができない。外資系のマーケターとしてはよくある限界なのだが、せっかく政治家になったのにそれ以上のところに行こうとしないという残念さがある。
今回の東京15区でどうして維新の推している候補が票を伸ばせなかったのかについてはこれから専門家たちの分析が入るのだろうが、やはりどうしてもなぜ日本の政党は「包紙マーケティング」以上に伸びてゆくことができないのかが気になる。おそらくこれを読んだ人たちにも自分なりの考えを持っている人がいるかもしれない。