吉村大阪府知事が0歳児投票権という新しいコンセプトを提案している。アホな人が議論を主導するとこうなるというわかりやすい見本になっている。ちなみに吉村氏の根拠は「不平等」なのでおそらく元になったコンセプトを説明することすらできないだろう。
大阪ではアホは屈辱表現だという。アホというと名誉毀損になりそうなので「残念な人」というくらいの穏健な表現にして予めお詫びしておきたい。残念な人の残念な政党の残念な議論だ。
音喜多駿政調会長はこの制度を「ドメイン投票方式」と説明している。ドメイン投票方式は1986年に人口統計学者のデメニー氏が考案した制度で高齢者の声が優先されそうな状況を補正するために考案された制度とされている。英語ではDemeny votingと呼ばれるそうだ。
つまり元々のコンセプトは割としっかりしており、彼らもその根拠をきっちり理解している。
ここで注目すべきなのはダメニー・ボーティングが1980年代の発想であるという点だ。現在のアメリカの政治状況は多極化しており一つの投票で全てを決めることはほぼ不可能になっている。
具体例をあげて説明したい。
アメリカ合衆国は既にこの弊害に直面している。バンドリング(束化)問題である。全てのイシューを一つに束ねて審議するやり方だ。
バイデン大統領はウクライナを支援したい。それに目をつけたトランプ氏は過去の息子の問題などを引っ張り出し「バイデンがウクライナにこだわるのは利権を持っているからだ」と主張した。トランプ氏曰くバイデン氏はディープステートを代表しておりウクライナはディープステートの利権である。
さらにここに国境政策という問題を持ち出し(実際に危機だったかは怪しいがとにかく危機であるということにした)「ウクライナか国境か」という枠組みをでっち上げてしまう。内政の問題よりも自分の私的利益を優先するのかというわかりやすい問いかけになっており、人々はこの議論に熱狂した。
ところがここにもう一つ別の問題がバンドルされた。それがイスラエルだ。イスラエルは外国なのでこの理屈でゆけば「国境よりイスラエルなのか」ということになる。だが、バイデン氏もトランプ氏もユダヤ系の支持は欲しい。そこでトランプ氏はこのアジェンダを放棄した。放棄はしたが一部の過激なMAGA共和党は問題から撤退せずに今でも大騒ぎを続けており、ジョンソン下院議長はこのおかげで解職されてしまう可能性がある。
一つの投票制度で全ての意思決定を行うのは不可能だし、おそらく今はなんとかなってもそのうち破綻するのではないかという結論が得られる。
ではこれをどう解決するのか。
アメリカでは既に議論が始まっている。その一つが二次の投票(Quadratic Voting、以下QV)である。トランプ政権下の終わり頃(著作は2018年に書かれており日本語版が出たのが2019年だ)ごろから発想が始まっているようだ。グレン・ワイル氏によればこれは「デジタル・デモクラシー」という分散型のソリューションの流れを汲む提案だ。
QVでは一人が持っている投票権をクレジット(声のクレジット=ヴォイスクレジット)に分割する。おそらく予算も予め分割されているのではないかと思う。例えば国防と教育などはあらかじめ予算が分割されていてそれぞれの領域が作られている。有権者は好きな領域に使えるクレジットを使って好きな投票に参加する。おそらくワイル氏の想定によればそれぞれの領域にはそれぞれの識者がおり政策決定をモデレートすることになるのではないかと思う。委員会方式の議会と似ているが、最終決定は本会議ではなく各委員会が決める。
現在AIが世界を支配するのではないかと言われている。これはAIという巨大な力が一つの行動原理や主義に基づいて専制君主的に物事を独裁するというイメージからきている。ワイル氏の属する「デジタル・デモクラシー」では意思決定は分割される。ワイル氏は現在のAIやWeb3にはむしろ懐疑的だ。分散化に用いることができるシステムを支配のツールとして使おうとしていると考えているのだろう。
ここで重要なのは、テクノロジーとイデオロギーは表裏一体であることです。わたしたちの社会は膨大なリソースを投資して技術を発展させていますが、どのような技術に投資するか、その優先順位をつけることが大事なのです。 例えば、AIは集中化を可能にし、トップダウンのコントロールを強化し、独裁政権に力を与えると考えています。AIにリソースを投入する選択は、その過程で民主主義の基盤を破壊するかもしれません。また、クリプトの研究は社会制度からの離脱や、社会組織が協力し合う紐帯を市場や金融システムに置換することを目指してきました。それゆえに、Web3の主な支持者である加速主義に傾倒する人々は、民主主義の根幹である集団組織の破壊を試みているように見えます。これらの技術やイデオロギーは、どれも民主主義に敵対的です。
音喜多駿氏は「多くの批判が寄せられているが誰も本質を理解していない」と得意気だ。だが、実際に彼らが示さなければならないのは、なぜ「1つの投票で全てが決まってしまう」仕組みが多元的な意思決定に勝るのか?という問いである。
少なくとも自民党はこれらの新しい仕組みを中央集権的な統治システムに組み込もうとしている。馬場代表がいうように維新が第二自民党を目指すならそれでもいいのだろうが、それでは有権者に対する代替選択肢(つまり政権交代の受け皿)になれない。
日本でも「小選挙区制度の元では死に票が増える」という問題を解決できておらず(もちろん憲法改正は必要なのだろうが)多元的意思決定に対する潜在的なニーズは高いものと考えられる。
おそらく吉村知事には「責任世代の有権者により多くの票を分配しようと提案すれば、彼らは維新に投票するだろう」という下心があるのだろう。だが、このやり方は破綻する。地方の高齢者により多く分配しろという主張の方がずっと通りやすいからだ。同じ理屈で「面積比で票を割り振るべきだ」などと主張されてしまえば話は膠着するだろう。せいぜいアメリカで起きているような票の取り合いに起因する政治膠着が日本でも加速するだけである。
日本人の政治議論の限界は「中空構造」に起因する勢力争いに起因するものが多い。一方でデジタル・デモクラシーのような抜本的な思想転換は現れず、それに興味を持つ政治家もいない。
結局のところこの提案は「子供の投票権を全て男(俺)が握るのか」と理解され世間からは相手にされなかった。維新にはマーケターはいてもモデレータやプロデューサはいないので議論が広がることはなく単なる思いつきとして瞬殺されるか万博のように長期的なダメージを与えることになる。
大手メディアも一応はこの問題を取り上げていたが「憲法改正が必要だ」という理由で実現はしないだろうと捉えられいる。つまりそもそも憲法を改正できるはずなどないという前提があることがわかる。
もろもろの議論を整理した上で、最も平たい人口に膾炙した言葉で表現すると「維新はつくづく残念な政党だなあ」ということになる。