国民民主党が政党としての自殺を図っているなあと感じた。東京15区は混戦模様だ。乙武洋匡氏の立候補をきっかけに混乱が起きている。
政治と金の問題を払拭するはずの選挙だが結果的に「政治家には知名度さえあれば政策なんかどうでもいい」というメッセージを振りまいている。
この「自殺」の影響について深刻に分析しようと思ったのだがふと「ありふれた自殺だな」と感じた。そもそも成功していないので極端なことにもなりそうにない。小池百合子氏に接近してメチャクチャになった希望の党の騒ぎをと同じ通路を辿ろうとしているに過ぎない。
もう「なんどでも好きにやればいいのではないか」と感じた。
まず経緯だけをおさらいする。
内輪化する自民党都連は新興市民が多い特殊な事情を抱える江東区で苦戦していた。そこに割り込んできたのが柿沢未途氏だった。系列議員に強引に接近したため公職選挙法の問題に触れてしまい逮捕・失職する。その穴を埋めるための選挙戦が混戦模様になっている。注目度が高いため元格闘家、ネットで有名な学者・評論家、収賄容疑で実刑判決を受けていて係争中の元職などが入り乱れる混戦模様である。
まさに「お祭り状態」だ。
そこに参戦したのが乙武洋匡氏だった。もともと野党系で出馬しようとしたが途中で自民党に接近し最後に不倫騒動で出馬を断念したという経緯が「みんなの党」界隈で語られる。今回も事実上の小池百合子党である「都民ファーストの会」が国政進出のために作った「ファーストの会」副代表の肩書きで出馬する。
知名度のある乙武氏に相乗りしようとしたのが無党派層の支持拡大に悩む国民民主党と自民党だった。自民党は不戦敗を避けたかったが政治と金の問題で負けることは目に見えており小池百合子氏の力に頼ろうとした。自民党と国民民主党の相乗り疑惑が持ち上がると国民民主党は支援に難色を示すようになるが、乙武氏が「自民党の支持はお断り」と宣言し自民党が「撤退」したことで国民民主党が支援を決めた。
ワイドショーのコメンテータのキャスティングであればこれで問題はなかったのだろうがこれは選挙である。本来なら政策が重要なはずだ。だが「キモチ民主主義」ではタレントの人となりと知名度が評価される。結果的に国民民主党は選挙に勝てれば政策なんかどうでもいいということを露呈してしまうことになった。さらに玉木さんは「乙武さんは公認(予定)」と言い間違えたそうである。事実上の小池党所属であり支援も公認も同じことだと考えるちゃらんぽらんさが浮き彫りになった。
結果的に小池都知事と玉木代表が並ぶ構図が作られた。冷静に考えると告示前なので選挙運動はやってはいけないことになっているはずなのだが「投票してくれ」と言わなければ何をやってもいいというのが現在の公職選挙法だ。事実上の事前運動を気にする人はいなかった。むしろ有名人が間近で見られるとして好評だったようで演説会は大盛況だった。
ここで冷静になって考えてみた。もはや有権者は政策などに興味はなく「なんとなく気持ち的に推せる」候補者がいればいい。政党としては自殺行為ではあるが、かといってこれで何かが決定的に悪い方向に転がるわけではない。
小池百合子東京都知事に人気があるのは東京の特殊な事情によるところが大きい。一極集中が進み石原都政で「財政立て直し」もおこなっているため資金を潤沢に持っている。財政再建圧力にさらされて悪者扱いされがちな総理大臣とは違い東京都の知事は注目を集め称賛され続けたい人にはうってつけの地位なのである。
現在の地方自治の仕組みでは都道府県は国家財政に大した責任を負う必要はないので、都知事はあくまでも部外者の立場でいられるが、国民民主党は(仮に政権を担うつもりがあるのなら)財源論について触れざるを得ない。
国民民主党側は「乙武さんと政策を擦り合わせた」と説明している。だが玉木雄一郎代表は普段から子育て支援金の問題で「負担の議論から逃げない」という姿勢も見せている。これが「財務省よりだ」という批判を招く。おそらくこれが国民民主党の支持が広がらない原因だろう。
仮に乙武氏のような政治家を多数擁立するならば、その政党の政策は「もっと支援を!」というものにならざるを得ない。つまり南米によくみられるようなポピュリズム政党のようなものになる。これが問題にならないのはこの手の候補がそれほど多くないからに過ぎない。
ただ、今回はすでに玉木さん自身がバックグラウンドチェックをやったことになっている。カバーする範囲は政策から人となりまでとはば広い。仮に何か起きた時には玉木氏が乙武氏の「身元引受人」ということになる。
国民民主党の路線は「政権運営の骨格を固めればあとは数合わせゲームだ」と考えた自民党に似ている。安倍政権時代の自民党にとってこれは結果的には自殺行為だった。数合わせではあっても彼らを食べさせてゆく必要はあるわけでそのために起きたのが政治と金の問題だった。玉木さんも一生懸命に自分の主張を浸透させるためには数が必要だという結論に達したのだろう。現在の小選挙区制には政治家を「数の政治」に堕落させるような構図がビルトインされているのかも知れない。