先日面白い呟きをみつけた。表現の自由についての言及が多い山田太郎参議院議員に対して「最初は裏があってコミケを庇護をしているのかと思った」というような呟きだ。山田議員にしてみれば、ターゲットを見つけてその代弁をするのは自然なことだっただろう。メーカーが特定のマーケットをターゲットにするのと同じことである。しかし、若者はそうは思わないようだ。「何か裏があるにちがいない」と怯えてしまうのである。
よく「このままでは政治不信に陥ることになる」という表現を見かける。しかし、若者には「うっかり陶酔して動員されれば、政治権力に利用されるだけだ」という確信が既にあることが分かる。彼らから見ればSEALDsの熱狂は説明できないことで「共産党にかどわかされている」という説明が受け入れられる余地になっている。
この視点で考えると、なぜ高齢者が「自分が主人のように」上から目線で政治に関わっているのか分からない、ということになる。若者の認識では有権者は政治という舞台の観客に過ぎない。観客が歌い手に対して喝采を送っても観客には何のトクもない。歌手が輝くだけである。で、あればその類いの活動には携わらない方がよい。時間の無駄だからだ。
この視点でみると「若者を動員しよう」という政治的な活動は一部を除き全て失敗していることが分かる。本質的には単純に2つの動機に基づいているからだろう。一つは敵陣営に取られまいとする動機、もう一つは借金にコミットさせて返済のための担い手として若者を組み込もうという意図だ。
「このままではシルバー民主主義が蔓延するので若い人たちにがんばってほしい」という主張をする政治家がいる。例えば民進党の細野衆議院議員などがそうだ。しかし、これは虫のよい話である。「お前らが説得しろよ」ということで「俺たちに丸投げするな」となっても不思議ではない。そもそも政治的なリテラシーがないので「政治がヤバいことになっている」という認識がないのだ。
可能性があり若者に受けそうな議員はどうだろう。松田公太参議院議員はマンガで日本を元気にする会の活動を伝えている。若者のロールモデルになれる「元気な起業家」なのだが、こうしたモデルは憧れにならない。それは日本の若者が基本的に「成功するための資源を割り当てられていない」という認識を持っているからではないかと考えられる。「どうせこうはなれない」という認識で見ると、単なるおじさんの自慢話にしか見えてこない。議員の「手柄話」なのだ。
ポイントになっているのは、遠景にいる歌手を見つめている有権者という構図なのではないかと思われる。市議会などの政治は割と身近な存在(いわば会いに行けるアイドル)のようなものだが、国会議員はメジャーレーベルの人たちであり、心理的な一体感に乏しいのだろう。
日本人は集団の構成をみて「自分たちがその場の空気を支配できるか」ということを冷静に見て、厳格に区別しているようだ。自分が空気を支配できないものには近づかない。この冷めた視線が日本を成長から遠ざけている。
こうした殺伐とした政治状況で若者が政治に参加している領域は二つだけだ。一つは「戦争法」とか「立憲主義」などというきわめて抽象度の高い話題であり、その本質は「アベ」という穢れの排除だ。アベはばい菌のようなもので、私たちの平和な暮らしを脅かすのだ。しかし彼らの発言には「政治家には利用されたくない」というものが多い。動員されるのことに対する忌避感と根深い不信が感じられる。
もう一つは「表現の自由」に関する物だ。若者は社会に参加できないので、子供部屋に逃れて空想の世界に耽溺することを選んだ。大人たちがそこに踏み込んできて「あれは児童虐待だ」と叫んでいる。子供部屋を守りたいというのが政治的主張になっている。基本的には「自分たちの生存権が脅かされる」という意味での拒絶反応だろう。
その他の「政治活動」は、民進党をいじめるというようなもので、とても政治活動と呼べるような物ではない。作れないが壊せるという態度だ。
こうした風景を見ると、数学の授業を思い出す。微分積分などを勉強しても自分の生活には関係がなさそうだ。数学理論が何を言っているか分からないし、得意でもないので、これでスターになることもできないだろう。であればチャイムがなるまでひたすらに退屈な時間を過ごすしかないのだ。これは数学に「エンゲージ」していない状態だ。
同じように若者は社会に関わることを実質的に禁止させられたまま、教室に縛り付けられているのだということになる。
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