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選挙以外の政治に参加しない日本人は落選運動により多くの時間を割いている

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先日、郷原信郎さんの落選運動のツイートを引用したところ投稿が多数リツイートされた。普段よりも閲覧数・エンゲージメント数が格段に多く「ああそんな運動が盛り上がっているのか」と感じた。小選挙区制で選択肢を失った有権者たちは投票行動の何倍もの時間を落選運動に費やしていると驚嘆し、これが発展するとどうなるのだろう?とも考えた。

中南米やアメリカのポピュリズムは一神教的な伝統に支えられた運動だった。外に悪を置きそれと戦うのが基本構造である。一方、日本のポピュリズムは村への回帰だった。あるものは小さな村を作り、政治家たちは巨大なSNSの村の中で常に有権者たちの監視にさらされている。

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郷原信郎さんは12万人近くのフォロワーがいる。そのために閲覧数が伸びたものと思われる。このほかに晴耕雨読というブログの管理者(1万人のフォロワーがいるそうだ)も拡散に協力している。郷原さんのツイートの内容は甘利明氏の落選運動に触れたもので「岸田総理の落選運動も行うべきかもしれない」とする内容だった。引用がなく単にリツイートされているという点に特徴がある。おそらく政治に不満は持っているが自分なりの付加価値をつけるところまで至っていないという人たちがフォロワーになっているのではないかと思う。これは反原発運動や反アベ政治運動の時によくみられた行動だ。また安倍派の支持者たちも同様なことをやっていた。つまり単純な同調行動で連帯を示している。

落選運動は村社会を生きる日本人の心象には合致している。日本人は相互監視を好み自分が気に入らない人たちとの共存は絶対に認めない。日本人が表立って自分の意見を言わないのは特定の集団に嫌われると排除の対象になってしまうことを恐れているからだろう。申し開きのチャンスはない。

小選挙区の限られた選択肢の中から「推し」にできない人を選ぶよりも気に入らない人を落選させる方が性に合っているという人は少なくないだろう。Quoraでも昔から「誰を入れたいかよりも誰を落としたいかで決めさせて欲しい」と主張する人は昔から少なくなかった。

プロフィールを見ると反原発運動から流れてきた人が散見される。立憲民主党は主に連合(労働組合)と市民運動から支持を受けている政党だ。だが、この2つの組み合わせはなかなか難しい。共産党系と社会党系で労働運動が仲違いした歴史がある。また、日本の労働運動は経営や体制と強調することを好み対立を避ける「協調路線」を取る傾向がある。連合が自民党と接近したり国民民主党が憲法改正を通じて体制派の人たちと協調するのはそのためである。

現在の立憲民主党はこの危ういバランスのもと政策を立案できなくなっている。政権打倒運動に傾きがちなのは政策がなくてもなんとか政治運動を維持して行けるからだろう。

安倍晋三という強力な敵を失ったため、かつての市民運動は急進力を失い退潮してしまった。もともと政治に興味がない人たちは地域の助け合い運動に戻ってしまい面倒な政治を避けるようになった。落選運動を見ていると一部急進化・純化した人たちがいる。運動としての広がりはなさそうだが彼らは決して諦めない。アレルジックな反応なのでそこにアレルゲンがある限りは運動体として持続する。

むしろ心配なのは国民に広がる政治家への蔑視感情だ。権力と一体化したいという願望は残っているが政治家をここから切り離し蔑視した上で監視する傾向が強まっている。いくつか兆候がある。

SNSで政治家が直接情報発信をすることが増えている。彼らは一様に「お叱りの言葉を頂戴した」と口にする。国家権力は依然憧憬の対象だが、政治家はそこから切り離され蔑視の対象になりつつある。

これがよくわかるのが岸田総理の車座集会だった。幹部たちが政治刷新車座対話をおこなっている。岸田総理には「国民の怒りは頂点に達している」との苦言が飛び(一国の総理大臣が有権者に説教されている場面が公然と放送されている)茂木幹事長は「岸田総理ではもうダメだね」と饒舌になっているそうだ。茂木氏も「今回の件では何もしなかった」と報道されているのだが、なぜかご本人は他人事だと考えている。

日本人のムラ的な感覚はSNSで遺憾なく発揮される。政治家たちは監視対象となり一挙手一投足が監視されている。そして少しでも反道徳的な言動があればネットの自警団から摘発される。これを取り上げるメディアも多数ありYahoo!ニュースなどで大々的に報道されるとお祭り状態となり炎上してしまうと言った状態が続いている。

例えば立憲民主党の杉尾秀哉氏の投稿は「事前運動ではないか」と大騒ぎになったそうだ。杉尾氏は投稿を撤回したという。

民主主義の先進国で比較すると、日本人は選挙以外の政治活動への参加をしないことで知られている。また政治について語る人は危険で特殊な人物と見做されてしまい「政治について語りたがる人とは食事に行きたくない」という人が多い。これは中国と日本だけの特殊な状況だと考えられている。

ところがこれは日本人のほんの一部に過ぎない。総理の車座集会では参加者の顔は隠されていた。またSNSの自警団もネットであれば身バレはしないだろうという人たちだ。

では政治はこの状況にどのように対応しているのだろうか。

自民党は派閥システムが崩壊したために却って非公式な好き嫌いに基づいた人間関係が支配的になった。つまりより村落化が進んだ。そのトップに君臨するのは責任を取らない長老と呼ばれる人たちである。

小選挙区制度はこうした人間関係によるシステムから脱却を目指していた。アメリカやイギリスのような近代的な選挙制度さえ整えれば、政策によってグループ化された政党が自ずと整備されるであろうという浅はかな見込みは打ち砕かれ、却って小さな管理されていない村がいくつもでき、国民から選ばれたわけでもない長老の発言権が強まっている。国民から選ばれたはずの人たちは何らかの理由で長老を恐れ意見が言えない。

一方の野党はやたらに囲い込みを進めるようになった。よく「サポーター制度」を目にするようになった。「政治について学びませんか?」などと言っているがおそらくお金も取るのだろう。会費をとって自分達の主張を勉強させる制度だ。有権者たちはどちらかといえば自分たちの声を聞いてくれる政党を探している。囲い込まれたいわけではない。こちらの意識のずれもかなり絶望的だが、政治家たちはこの制度をやめられない。

政治家と有権者の意識は完全に乖離してしまっており、制度も実情に全く合致していない。有権者たちは「誰に投票するか」とか「どんな政策がいいのか」について学ぶ気力を失いつつある。代わりに、とにかく政治家の問題を探し出して糾弾する自警団活動活動に夢中になっており、中には投票よりも落選運動や排除運動に多くの時間を割く人たちまで現れた。

日本人の排他的な村意識の行き着いた先は政治家への蔑みとアレルギー的な嫌悪感に支えられた落選運動だった。良し悪しは別にしてこれが日本の民主主義の現在地点なのだろう。キリスト教的な道徳に支えられた中南米やアメリカのポピュリズムとは違い、日本型のポピュリズムは村落への回帰だったということになる。

自民党は派閥が崩れた長老を尊重とする村に戻り、野党は新しい村への入居者を探している。入村するためには野党の教義を受け入れお布施をさしださなければならない。そしてSNSは巨大な村になり政治家たちの不都合な行為を日々監視し続けている。

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