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政治的状況と演劇空間

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このところ、政治と演劇について考えている。興味のない人にはどうでもよい話なのだとは思うのだが、興味がある人は「では、演劇とは何なのか」と考えるのではないだろうか。
ここでいう「演劇」とは、緊張とその緩和を指す。日常生活はどっち付かずの状態の連続で、これといったイベントは起らない。そこで人々は「きっちりとけりの付く状態」を体験することである種の爽快感を得る。この爽快感のことをカタルシス(浄化)と言ったりする。演劇の目的はカタルシスの獲得だ。
緊張は新しい情報という形でもたらされる。様々な形がある。いくつか例を挙げて考えたい。
オバマ大統領は「和解の外交」を標榜しており国内世論の反対を背景に広島訪問を強行し、広島で被爆者と抱き合った。これは被爆地では待ち望まれていた来訪であり日本人には緊張緩和の効果があった。「折り鶴」はその象徴として扱われるのだろう。しかし、そこで新しい情報ももたらされた。実はアメリカ人にも原爆の犠牲者がおり、それに気をとめた日本人がいたのだ。対立や謝罪という緊張があり、オバマ大統領の提唱する「和解」で解消する。すると、受け手はカタルシスを感じるのだ。
舛添東京都知事にも演劇的な背景が見られる。スマートな論客として知られていた舛添都知事は、実はお金に汚い人だったという新しい情報がもたらされる。ところが舛添都知事はこの疑念を解消する解決策を持っていない。すると観客は勝手にカタルシスを求め始める。それは舛添都知事が辞任することだ。そこには理屈はないし、法的な要請もない。しかし、視聴者(あるいはニュースの送り手)は状況がシナリオ通りに進むことを求めているようだ。このように「選挙のイメージと違う」という裏切りで辞任に追い込まれる政治家や活動自粛を余儀なくされる芸能人は多い。
小泉首相は、潜在的な自民党政治への不満を背景に「郵政民営化」という解決策を持っていた。だが対立がなかったので「自分は聖戦を実行しているが抵抗勢力がいる」というストーリーをでっち上げた。小泉首相が健在化させるまでは「旧態依然とした自民党の体質」は漠然とした不安に過ぎなかった。その背景にあったのはバブルの崩壊であって遊泳民営化は本質的な解決策ですらなかった。だが、人々は作られた対立に熱狂し、小泉首相の戦いを熱烈に支持した。
緊張と緩和には様々な類型があるが、一般的には喜劇と悲劇に分類される。伝統的には人知を超えた力に翻弄されるのが悲劇で、人間社会のあやを描いたのが喜劇とされるそうだが、現在では必ずしもそうした分類はなされない。しかし、悲劇類型であってもその結末が悲劇的とは言えない。
ある種の喜劇では緊張が起るが、ドタバタの末にある種の解決がもたらされる。嘘がばれないようにやきもきしていたが、結局嘘がばれてしまうという演劇の場合「嘘がばれた」瞬間がピークになり、その後の解決策(緊張の緩和)が提示される。演劇の中に緩和が組み込まれている。
別の喜劇に「うざい」キャラクターにうんざりしている周りの人たちがそのキャラクターを懲らしめるという形式がある。たいていの場合キャラクターは固定されている。「うざい」キャラクターが懲らしめられるところに緊張の緩和がある。
一方で悲劇の場合、最初にピークが来る場合もあるし、最終的に状況が破綻して終わることもある。劇場を重苦しい空気が支配するわけだが、劇中、緊張は緩和しない。緊張が緩和されるのは劇場を出たときだ。
スターウォーズはダースベーダーの人格の崩壊と、その後のreconciliation(和解)を扱っている。既存の悲劇や心理学を研究したものと言われている。少なくとも最初の6話は父親が経験した悲劇を最終的に息子が統合する話である。スターウォーズは悲劇類型だが、解決策も劇中で提示される。
例えば単純そうに見えるヒーローものでも緊張が見られる。ヒーローになる人は何らかの葛藤を抱えているのが常である。単純に悪を倒すだけでは面白くないのだ。いわゆる「悪」は純粋に倒す存在なので葛藤の源としては弱いことになる。運命に翻弄されるという意味では悲劇類型だ。実際には悪は問題というより終わりを規定している。悪を倒した時点でヒーローの課題が解決し物語が終わるのだ。
もちろん、こうした緊張と緩和の演劇を脱しようする試みもある。中には演劇の状況に心理的に取り込まれないように観客に要請する劇作家もいる。しかし、それでも感情移入の力は強い。感動を求められない芝居にも人は感動してしまうのだ。
演劇は限られた空間を必要とする。そこから解放されることがカタルシスを生み出すからだ。故に、携帯電話に遮られ時間が寸断される世界ではドラマそのものが成立しない。一方で、本来出口我ないはずの日常のニュースが演劇化してしまう。人々はそこにカタルシスを求めてしまうことになるわけだ。
演劇空間をうまく利用すれば、普段は埋もれている社会的問題に新しい光を当てて、新しい視点を獲得することができる。しかし、問題の解決が図られず、単にカタルシスを得るために演劇空間が利用されるということも多い。こんな事例がある。
オバマ大統領はYes We Can!というフレーズで演劇的な空間を作り出した。諦めなければ状況は変えられるという幻想を有権者に与えたわけである。今になって思うと人々が何に熱狂したのかよく分からない。その揺り戻しは「政治家は嘘をつく」という不満になって現れた。煽動しただけで何もしてくれないというわけである。それを体現しているのがトランプ候補だ。
小泉政権も悲惨だった。自民党をぶっつぶすと言ったのだが、実際につぶれたのは小泉陣営に反対する派閥だった。3代に渡る混乱の後、民主党はそれを利用した。公共事業を抵抗勢力と位置づけ「コンクリートから人へ」と主張したのだ。しかし、それでも緊張は緩和されず、安倍政権の「アベノミクス」に引き継がれた。アベノミクスは問題を先送りしただけなのだが、民主党が作り出した緊張(あるいは巨大地震が作った緊張なのかもしれないが)は緩和されたように見える。
現在の緊張は消費税が上がるかということなのだが、作り出された緊張は安倍首相により取り除かれようとしている。新聞は意識せずにこの演劇空間作りに加担している。消費税増税延期というゴールをほのめかしつつ、緊張を煽ったのだ。
人々は次に新しい問題が起るまで、弛緩した非演劇空間を生きるのだろう。次に何かが起るのは状況が逼迫したときだが、何が起るかは今は分からない。問題は全く解決していないからだ。