モスクワのコンサートホールで乱射事件が起きた。当局は40名が死亡したと伝えている。アルジャジーラの報道は次の通り。ウクライナ側は関与を否定しているがロシア側が対ウクライナのプロパガンダに利用するシナリオが考えられる。2000年代にもモスクワの市民生活がテロによって脅かされチェチェン弾圧に利用されたがことがある。当局の自作自演を疑う研究者もいる。事件後数時間経ってISILが犯行声明を出したが審議の程はわかっていない。
- モスクワのコンサートホール(クロッカス・シティ・ホール)で銃撃事件が発生。40名が死亡し100名以上が負傷した模様
- 国営タス通信などが連邦保安庁の話として伝えた
- ロックバンド「ピクニック」のコンサートに参加していた観衆に向けて自動小銃が発砲された
- 当局はテロと断定しモククワで行われているパブリックイベントが中止された
- アメリカはウクライナの関与を否定したが、ロシア側は(ウクライナの関与がわかった場合の)報復を示唆
- アルジャジーラは「ロシア大統領選挙を前にアメリカとイギリスの大使館がテロの可能性を警告していたことは注目に値する」と書いている
西側の報道機関は締め出されてしまっているため情報がかなり限られている。現在はAP通信がホール外側からの映像を流しているが、事件発生後1時間以上経過してもなおホールでの火災はおさまっていない。映像のインパクトはかなり強烈でありモスクワ市民は脅威を感じているだろう。
ISILが犯行声明を出し各社が伝えているがISILは犯行の証拠を示していない。アメリカの情報当局は事前にISILがモスクワへの攻撃を示唆していたとしてロシアに警告を送ったと発表しThe New York Timesなどが伝えている。事件後数時間が経ち既にこの問題は関係者同士の情報戦の様相を呈している。
おそらく現在想定される最も危険なシナリオはロシア側が「これはウクライナの仕業である」としてウクライナ攻撃の口実に使うというものだろう。合衆国はテロが起きた直後にウクライナの関与はないと発表しておりこのシナリオの実現を恐れているものとみられる。現在も盛んにアメリカは事前にISILの攻撃の兆候を掴んでおりロシアにもきちんと報告していたと主張している。
一方でロシア側がこれをどのように利用するかはよくわからない。アルジャジーラは普段から過激な言動を繰り返しているメドベージェフ氏の発言を次のように伝えている。「もしウクライナの仕業だとすればタダでは置かないぞ」というわけだ。アメリカ側はこれを否定しているがウクライナの情勢をどの程度掴んでいるかは未知数である。アメリカのウクライナ支援が滞りを見せる中でウクライナ当局とのコミュニケーションが万全とは言い難い状況である。またウクライナに太いパイプを持っていた国務省のヌランド氏が退任を決めておりこれも不安な材料の一つだ。
Former Russian President Dmitry Medvedev wrote on the Telegram app that if those responsible for the attack turn out to be Ukrainian, “all of them must be found and ruthlessly destroyed as terrorists”.
ロシアの自作自演ではないか。このような疑いを持たざるを得ないのはプーチン政権には前科があるからだ。ロシアではモスクワ劇場選挙事件など市民生活を直撃するテロが起きていた時代がある。この時に廣瀬陽子氏は次のように書いている。つまり自作自演の可能性があるというのだ。廣瀬陽子氏は文献を添えており単なる言いがかりとも言い切れない。
また、チェチェンの独立派武装勢力が実行したとされる2002年のモスクワ劇場占拠事件や2004年のベスラン学校占拠事件ですら、FSB関係者が犯人グループの中に数人混じっていて、そのような人々はロシア特殊部隊の突撃の直前に姿を消したという証言もあるくらいである(これら、FSBのロシアのテロへの関与については、文末に紹介した文献を是非参考にしていただきたい)。
プーチン政権はその後テロと徹底的に戦うとしてチェチェン侵攻作戦を決行した。だがその実態はカディロフ将軍一派による過激な弾圧作戦だった。その後カディロフ氏は首長となりチェチェンの治安は回復しテロの脅威は取り除かれたとしていた。だが実際にはそれは虚偽の説明に過ぎなかった。
プーチン政権はその後「国民生活を守る」という体裁で政敵の弾圧に力を入れることとなり、現在までその状況は続いている。プーチン氏は大統領選挙で圧倒的に国民に支持されたということになっているのだがおそらく実際にどの程度国民に支持されたかは彼自身がわかっているはずだ。何らかの工作が必要だと感じても全く不思議ではないし、そのために国民が犠牲になることに対してもあまり痛痒を感じないのかもしれない。