徳島県が中華製の安いタブレットを購入して被害に遭っている。価格につられて購入したそうだが3年で半分以上が壊れてしまった。
メーカーに問い合わせをしようとしたがメーカーと連絡がつかないそうである。Amazonでもメーカーと連絡がつかないのはよくあることだが行政でもこんなことが起きるのだ。
「これだから中華は」とか「徳島県の担当者も甘すぎるよな」と思ってしまうのだが、調べてみると意外と根深い問題を孕んでいる。
教育行政を預かるトップの人たちにやる気が感じられない。例えていうのなら「眠りながら歩いている」印象だ。日本のIT化も前途多難だと感じる。教育格差はますます拡大するだろう。
共同通信が「後藤田知事も激怒、高校生に配備のタブレット「3年もたず半数超が故障」の異常 後手に回る教育委員会、中国メーカーからは返答なし」という記事を配信している。クリックしてもらうためにタイトルに全部の要素を入れましたというような斬新な表題だ。
Amazonなどでも中華製の製品を使って酷い目にあったという人は大勢いる。きちんとレビューを見て購入しましょうとアドバイスが多いが、実はレビューも信頼できないのでは?という意見もあるようだ。
行政も同じような手法に引っ掛かってしまうんだなと思った。
徳島県のタブレットの問題はかなり前から指摘されていたそうだ。例えばITMedia Newsの記事は「机の上に物がたくさんあるせいで」落として壊してしまうのでは?などと指摘している。おそらくは行政がきちんと選定しているのだからまちがいなど起こるはずはないという思い込みがあったのだろう。
確かに昔の日本では国産メーカーの営業マンが行政に対して手厚いサポートをしていた。だがそれも今は昔という状態になっているようである。最も高いのは「無料サービス」なのだ。
論評には「結局は国が何とかすべきだ」という意見が多い。修理費用も予算化すべきなのではないかという指摘もある。地方にはIT人材がいないのだから国が責任を持って推薦タブレットを選定してカタログ化すべきだとなりかねない。
地方は手取り足取り面倒を見てやらないと新しいプロジェクトを遂行できなくなっている。
徳島県は対策として「情報教育に詳しい人」を新しい教育長に任命する。朝日新聞の記事を読むと「教育情報化コーディネータ1級」という資格を持っていることが情報教育に詳しいという根拠になっているという。
英語を話せない人たちが「英語に詳しい人」を選ぶ際にTOEIC900点以上を基準にすることがある。TOEICはあまり英語が得意でない日本人のために作られた資格なのだがそもそも英語が話せない人はこれがどれくらいのレベルなのかがよくわからない。
この新しい教育長が本当に情報教育に詳しいことを祈るばかりである。
GIGAスクールについてゆけていないのは行政だけではないようだ。むしろ教育人材の劣化の方が重要かもしれない。
教育長は教育界を登ってきた人の最終到達点になることも多いが、民間の競争にさらされていないためどうしても世間の常識と隔絶された人の最終到達点になってしまう。
GIGA端末はネットいじめの温床になっているという。子供はすぐにタブレットの使い方を覚えてしまうが教育現場にはIT端末に詳しい人材がいない。このため悪質なネットいじめに教師が気がつかないという問題が多発しているのだという。
ネットリテラシーに詳しい人が学校向けにアドバイスを書いている。アドバイスの内容は「アカウントやパスワードはとても大事なもので、誰かに教えてはいけないと生徒に説明しましょう」から始まっている。まずはそこからなのである。
日本の生産性が上がらないのは英語とITに詳しい人材が育たないからであるという議論がある。とりあえずGIGAスクール構想でタブレットさえ導入してしまえば何とかなるのではないか。そんなざっくりした思惑で始まった事業はかなり厳しい状況に置かれている。
新卒信仰の強い日本ではさまざまな職業経験を積まない人が教師になりそのまま学校村・教育村を形成する。
そのまま民間の競争にさらされずに教師の序列を上に上がってゆき、教育行政のトップになってしまう。本人たちはおそらく「一生懸命にやっている」「さまざまな報告業務に忙殺されている」と主張するだろうが。
だが、おそらく人材レベルとしては民間にかなり劣った人たちの吹き溜まりになっているのではないかと感じる。だから「アカウントやパスワードは人に教えちゃダメですよ」から始めなければならない。
だが、こうした「眠りながら歩いている」ような教育人材を今すぐ全て辞めさせてしまえなどと成田悠輔式の解決策は提唱できない。
となると、国が予算を出して手取り足取り先生たちを指導する以外に解決の見込みはないが、それには膨大な予算が必要となる。
あるいは優秀な学校の先生だけにIT化を任せるというやり方も考えられる。お金がありリテラシーの高い親に子供の教育を選ばせるというやり方である。平等信仰が強い日本では批判されるだろうが、おそらくリテラシーの高い親は子供に自分のお金でタブレットを買い与えているのではないかと思う。つまり格差は既についている。
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