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マイクロ・アグレッションとはなにか アカデミー賞授賞式でロバート・ダウニー・Jr.がキー・ホイ・クァンを無視

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アメリカには人種差別がある。これがよくわかる出来事があった。アカデミー賞の授賞式でロバート・ダウニー・Jrがキー・ホイ・クァンを無視しSNSで批判にさらされた。

この話題はアメリカでは当事者間の気まずい問題として語られている。不思議なことだがなぜか日本のSNSでも話題になったようだ。こちらは「事実」をめぐる不毛な争いとなっている。

今回の事例で注目された点は主に二つある。一つはSNSで広がる「ポリコレ警察」の存在だ。また、差別とマイクロ・アグレッションの違いにも注目が集まる。ロバート・ダウニー・Jr氏がなぜあのような行動に出たのかはわからないが、差別感情があってもそれを率直に口に出せないという緊張した状態が背景にあるものと思われる。

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この話題は英語メディアでも多く取り上げられている。Business InsiderHuffington Postがそれぞれ書いているので読んでみた。キー・ホイ・クァンは去年の助演男優賞を受賞しており今年の受賞者であるロバート・ダウニー・Jrに賞を授ける役割だった。しかしロバート・ダウニー・Jrはキー・ホイ・クァンを完全に無視し他のプレゼンターたちとだけ握手をした。

まず初めにお断りしておく。日本ではさまざまな議論があったが、これは明らかに人種差別である。だが、ビジネスインサイダーもハフィントンポストも「人種差別があったかどうか」については問題にしていない。なぜならばアメリカに人種差別は存在するというのは自明であり議論の対象になることはないからだ。

話題になっている点は2つある。一つはSNSにおける監視活動である。俳優たちの一挙手一投足に注目しさまざまな議論が飛び交った。ロバート・ダウニー・Jrの不適切な行為はすぐさまSNSのポリコレ警察に捕捉され、人民裁判が行われ、さまざまな「判決」が飛び交った。これが一種異様な状況を作り出していたようだ。

ロバート・ダウニー・Jrはもともと問題行動の多い人だった。長年薬物問題などに苦しんできたこともあり「公式の場所でどのように適切に振る舞っていいのかわからなかったのだろう」とする人もいる。のちにバックステージでは全員で集合写真を撮影しており「特に険悪な様子は見られなかった」として「悪意がなかった」と主張する人もいるようだ。

もう一つがマイクロ・アグレッションである。

マイクロアグレッション自体は1970年ごろに提唱された古い概念でもともとは社会学などの一部のアカデミックコミュニティだけで使われていた。公民権運動の影響で政治的差別はなくなったとされたがその後も黒人たちはさまざまな差別に晒され続けた。多くは「仄めかし」によるもので名前がない。そこでハーバード大学のチェスタ・M・ピアスらがこの行動に「マイクロ(些細な)アグレッション」という言葉をつけた。

この専門用語はSNSが発展するに従って広く知られるようになる。と、同時のその意味も希釈していった。

もともと公民権運動の後の1970年代に黒人が経験する微妙な差別を表すための言葉だったわけだが徐々に単なるレッテル張りの言葉として利用されるようになった。真の相互理解を促進するためには却って問題のある用語となりつつある。

ハーバードビジネススクールに記事を見つけた。「We Need to Retire the Term “Microaggressions”」というタイトルで「マイクロアグレッションという言葉を超えてゆく必要がある」と主張する。

公民権運動で黒人差別が禁止されるようになると徐々に善意ある白人の間で「多様性を尊重することこそ誇らしい」という認識が広まってゆく。しかし、実際には有色人種を理解しているわけではないので「善意の白人が有色人種に偏見に満ちた善意を押し付けてくる」ことが増えた。また、マイクロには「些細な」という意味合いもある。このことから「意識高い系の人が取るに足らないことを差別だと言い立てるために使われているのだ」と考える人も出てきているようだ。Quoraの英語版ではそのような説明をする人がいた。

このHBRの記事では韓国系アメリカ人に「英語が上手ですね」と褒める実例が出てくる。白人のマネージャは善意のつもりで言っているのだろうが、これは明らかに韓国系アメリカ人を二級市民として扱った差別発言だ。アメリカで生まれ育った韓国系アメリカ人は「自分は韓国系コミュニティではなくアメリカ社会に属している」と殊更強調しなければならなくなる。が、そのたびに自分たちは本当のアメリカ人として認められていないという感情を抱くようになるだろう。

しかしながら「その行動はマイクロアグレッションだ」と言ってしまうと問題を封じ込めることになってしまう。問題解決のためにはこの用語を超えて真の相互理解が必要だというのが記事の結論である。

ロバート・ダウニー・Jrもおそらくアジア人に偏見を持っている。「芸術家は自分の気持ちに正直でなければならない」が「公の場所で内心の一部である差別感情を示すと罰せられる」というダブルバインドにも晒されている。アーティストには正直さが求められているのに差別主義者のレッテルはアメリカでは社会的な死を意味する。現実的にロバート・ダウニー・Jrはこ子に囚われてしまった。「いざ」というときにフリーズしてしまいどうしていいかわからなくなったのはそのためかもしれない。

このダブルバインドが爆発すると「アメリカの主人は白人であるはずなのになぜそれを表現できないのだ」と内側に怒りを溜め込む人たちが出てくる。こうした不満を持ったサイレントマジョリティを焚きつけるのは極めて簡単だ。これが欧米では極右の台頭という形で表面化している。

日本のSNSを見る限り、日本人は今回の騒動が何を意味してているのかを掴みかねているようだ。だがアメリカ合衆国では差別される側にせよ差別される側にせよ「当事者の問題」として語られている。誰もが正面を切って議論をするのが難しい切実な問題である。日本人がこれを理解したいのならばアメリカの置かれている厳しい現実を押さえておくべきだろう。アメリカで暮らすかぎりこの議論から逃げることができる人は誰もいないのだ。

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