トランプ氏が快進撃を続けている。その秘密の一つにトランプ氏の「マッドマン・セオリー戦略」がある。狂った人のように振る舞うことで相手に「この人は理解不能な人だ」「何をしでかすかわからないぞ」と思わせるという戦略である。目の前の勝負に勝つという意味ではある意味無敵の戦略である。
マッドマン・セオリー(狂人理論)の発案者はニクソン大統領だそうだ。だが、ニクソン大統領のこの戦略が「狂人のふり」だったかどうかは実はよくわかっていない。実際に精神状態が不安定であったとする証言がある。
米ソ冷戦時代にアメリカ大統領を務めたニクソン。彼は重度のアルコール依存だった。ジャーナリストのブノワ・フランクバルム氏は「深酒をして、昼過ぎまで起きられないこともしばしば。ただ、そのおかげで世界は第三次世界大戦を迎えずに済んだ」という――。
このニクソン大統領のマッドマン・セオリーには功罪がある。当時のアメリカは核戦争の危機にあった。ニクソン大統領の戦略によりデタント(緊張緩和)が行われ東西睨み合いの度合いが弱まっている。だから第三次世界大戦が回避できたと評価されている。一方ではアメリカの政治は以降の内部統治に大きな課題を抱えることになった。つまり狂った理論は目の前の闘争の勝利と引き換えに内部倫理を崩壊させる危険を孕んでいる。
ニクソン氏と日本の長期政権を作ったある首相には共通点がある。一度不遇の時期を過ごしておりその時に「どうすれば失敗から這い上がることができるか」を考えている。ニクソン大統領は「そうだ狂ったふりをすればいいのだ」と気がついた。一方で長期政権を作った日本のある首相は「ご飯論法」で議論を破壊する道を選んだ。トランプ氏も事業で失敗した後リアリティーショーのタレントとして復活したという過去がある。CPACで陰謀論を振りかざしたトラス氏も短期間で政策に行き詰まり首相の座を追われた。
ニクソン氏は共和党候補としてケネディ氏と対決するが敗北している。見栄えでケネディ氏に負けたといわれているそうだ。ラジオ演説を聞いた人はニクソン氏が有利と考えたがテレビ演説を見た人はケネディ氏が有利と受け止めたという逸話がある。
その後、ケネディ氏は暗殺されてしまう。その後ニクソン氏は華麗な復活を遂げ大統領選挙に勝利するのだがベトナム戦争はすでに泥沼化していた。
ニクソン大統領の名前は二つのニクソン・ショックで名前が知られている。一つは突然の中華人民共和国訪問でありもう一つはドルの金兌換停止だった。金兌換を停止するとドルの信任が失われる可能性があるためサウジアラビアを訪問しサウジアラビアからの石油をドルで買うという確約を取る。これによって原油を得るためにはアメリカドルが必要ということになりドルの価値は守られた。
ニクソン大統領はこのころからマッドマン・セオリーに飲み込まれていったようだ。
倫理を踏み越えて行動しているうちに「目標を達成するためなら何をしてもいい」と考えるようになってしまったようである。再選を目指していた第1期の終わりに民主党の動きを盗聴、のちにウオーターゲート事件と呼ばれることになった。
ニクソン氏は弾劾される大統領という不名誉を避けるために自ら辞任したと言われている。この電撃辞任はアメリカの憲政史上初めてのこととされている。フォード大統領はニクソン氏を訴追直前に恩赦した。これ以降ニクソン氏は罪に問われることは無くなったが実質的にウォーターゲート事件で有罪相当であると認めた形となる。フォード氏はこの代償を大統領選挙落選で支払うことになった。これは長期政権以前から続いていた「政治とカネ」問題の後処理に追われる岸田総理と極めて近い立ち位置だ。
パリ和平条約に調印したのは大統領ではなくキッシンジャー氏だった。フォード大統領政権下では国務長官も兼任し外交の表舞台に立ち続けた。おそらくニクソン大統領のマッドマン・セオリー戦略は戦略が成功したというよりもスタッフである実務家にフリーハンドを与えたことに成功の秘訣があるのだろう。キッシンジャー氏は国民に対する説明責任を果たす必要はない。民主主義的な方程式にとらわれることなく国益が追求できる。一種の陽動作戦と言って良い。
実態を見る限りキッシンジャー氏がまともばリアリストだったから危機を脱出できたという可能性が高い。故に、トランプ氏の場合も「仮にスタッフが優秀ならば」アメリカはマッドマン理論により危機を脱することができる(かもしれない)ということになる。だが、それは保証の限りではない。
いうまでもなく当時と現在では世界情勢が大きく変わっている。当時は東西冷戦という膠着状況があり東西冷戦による核戦争の脅威が現実のものとして存在した。アメリカが適度に狂っていたからこの危機を脱してキッシンジャー氏の元でデタント(雪解け)政策が実施できた。
ところが現在は状況が全く違っている。
プーチン氏が仕掛けたウクライナ侵略に西側が勝てていない。平時であれば国民は繁栄を求めて西側に惹きつけられる。ところが戦時になると国家総動員体制を早く準備できる独裁・全体主義体制の方が有利になる。プーチン氏はこの国家総動員体制の構築に成功しつつある。また経済状況が不安定になると石油のコストが値上がりする。これもプーチン氏にとっては有利に働いている。西側の経済制裁にもかかわらずロシアの国庫には現金が溢れているそうである。原油をたくさん売ることに成功したためだ。
同じことは中国にも言える。2023年初頭に習近平国家主席は国家総動員体制の構築を人民解放軍と人民武装警察に呼びかけている。さらに2023年には企業にも人民解放隊の結成を呼びかけている。有事の際に国家総動員体制を構築し人民の反乱を抑えるためにも機能する。仮に日本がこれに対抗することになっても中国のような体制を素早く整えることはできないだろう。日本はアメリカ同様に民主主義国家のために合意形成に時間がかかるからだ。
さらに日本は中国のような国家総動員体制にも勝てないうえにアメリカ合衆国のマッドマン戦略に翻弄される可能性がある。トランプ大統領が日米同盟の価値を理解しないふりをして日本撤退を持ちかけ日本から多額の防衛費を引き出すという戦略も可能性としては想定できる。
秩序を適度に破壊するためにマッドマン・セオリーは役に立つ。だがそもそも秩序が破壊されたところに混乱を足しても「大混乱」になるだけである。
今や自民党の新しい伝統芸となりつつある「ご飯戦略」もこのマッドマンセオリーの亜流と言えるだろう。ご飯戦略のおかげで自民党政権はうまくいっているという印象を長期間温存することができた。だが現在はその副作用が出ている。金融緩和政策は行き詰まり、清和会は政治とカネの問題を処理できずに他派閥を巻き込んで消滅してしまった。さらに統一教会の問題も精算できていない。岸田総理がやっていることの多くは実は清和会の諸政権の後始末なのだ。
狂ったふりをしているうちに何が正常なのかがわからなくなると組織内の遵法意識が失われる。これが組織を内部から破壊する。
ニクソン政権は全体未聞のウォーターゲート事件を引き起こしたがそのあとを継いだフォード大統領はこれを払拭できなかった。トランプ氏も訴訟を山ほど抱えており大統領になるのが早いか収監されるのが早いかという状態に陥っている。アメリカの保守主義者の集まりであるCPACは「民主主義を破壊しろ!」との主張が飛び交っておりお祭り状態になっている。トランプ氏はここで「選挙戦の日は民主主義に対するジャッジメントデイとなるだろう」と予言した。
最後にトランプ氏のマッドマン戦略がどのようなものかを見てゆきたい。
トランプ氏はイスラエルとアラブの両方から利益を得たい。そのために邪魔になるのがパレスチナである。NHKが次のように書いている。
ところがトランプ政権は、アメリカが堅持してきた立場をひっくり返しました。11月、ポンペイオ国務長官は「イスラエルのヨルダン川西岸の入植活動は国際法違反とは見なさない。国際法違反だと主張してきたのに、和平の実現に役立たなかったのは明らかだ」と表明したのです。
パレスチナ問題が解決しない理由の一つはアメリカ合衆国が国連安保理においてイスラエルを保護し続けたからである。これは私益の追求を狙ったものだ。だが道義的には「パレスチナ人にも主権を与えるべき」という気持ちがあった。つまり長い間アメリカは「私利私欲」と「道徳」の間で二律背反状態にあった。
狂人はここから「パレスチナ人にも主権を与えなければかわいそうだ」という道徳を取り払う。そして「結果的に国際法違反という主張は問題解決に役に立たなかった」という部分だけを切り取る。結果的にトランプ政権は「アブラハム合意」に向けて歩み始める。これはパレスチナを抜きにしてイスラエル・アラブ・アメリカ合衆国がハッピーエンドを迎えるという戦略である。
ではこれがうまくいっているのかということになる。結果的に10月7日のハマスの攻撃によってこのアブラハム合意は事実上崩壊した。
さらに、トランプ氏は民事・刑事両面で多くの訴訟を抱えている。トランプ氏は「狂人のふり」をしてそれを全て無視する。その上で自分は「体制に虐げられている」というポジションを作る。そしてそれをキーワードにして検索を行う。ヒットしたのがロシアの反体制政治家のナワリヌイ氏と黒人だ。そしてそれをコアにして新しい論理を再構築する。
- ロシアの刑務所で死亡した反政府活動家ナワリヌイ氏と、刑事被告人となった自身を重ね合わせ「将来の大統領としてではなく、誇り高き反体制派としてここに来た」と述べ、政治的な捜査の被害者になっているとの主張も展開した。
- トランプ氏はサウスカロライナ州での予備選前日の23日、同州で開かれた黒人支持者の集会で演説し、「黒人の皆さんは私のことが好きだ。なぜならひどく虐げられ、差別されているからだ。私も実際差別されているとみてくれた」と語った。
トランプ氏は複雑な問題をバラバラに破壊した上で都合が良い要素だけを抜き出し「再びバンドル」して論理展開する。これは「ご飯論法」の時に用いられた戦略だ。この時に都合の悪い理屈は全て排除されている。だから誰も勝てない。ある意味無敵の人になれるわけである。
ただしこの作戦は大きな副作用を残す。
狂ったふりをしているうちに平衡感覚が失われる。さらに新しい物語はどこかで論理的に行き詰まる。これらが複合的に怒った結果、組織は内部から無残に崩壊してゆく。日本では政治とカネの問題や統一教会の問題が処理できなくなりつつあり政治全体が国民からの信頼を失いつつある。アメリカの場合破壊されているのは共和党の内部統治と国際的な信頼である。トランプ氏のマッドマン・セオリーはアメリカの国際的なプレゼンスを破壊しつつある。