トランプ氏が演説を行い「ロシアのNATO攻撃を容認する発言をした」として話題になっている。アメリカ国民の中には自分達ばかりが負担を押し付けられNATOなどの同盟国が相応の負担をしていないと考える人が多い。トランプ氏の発言はその不満を代弁したものと考えられる。演説は拍手で迎えられた。
国際政治の専門家たちは「民主主義とはこんなものだ」と頭を抱えNATOのストルテンベルグ事務総長は加盟国の安全保障を損なうとして反発している。
トランプ政権は米韓同盟からの撤退を真剣に議論していたと伝えられていた。こうした背景を考え合わせると、トランプ氏の態度が全く変わっていない点は日本をはじめとした同盟国にとってはかなり危険な状況と言って良い。現在の日本の安全保障戦略は日米同盟破棄を全く想定していない。東西冷戦終結後に「見捨てられ不安」があったときにも「日本の負担分を増やせばアメリカを慰留できるのではないか」程度のアイディアしかなかった。
以来、日本の政治はこの問題の処理をめぐり揺れ続けている。だが、アメリカ国民には全く響いていないようだ。
時事通信はこのように背景情報を全くすっ飛ばした記事を書いている。荒唐無稽なので「そんなことあるはずがない」と考えた人が多かったのではないだろうか。Yahoo!ニュースなどでは全く注目されなかった。
- NATO同盟国「守らず」(時事通信)
だかこれはフェイクニュースではない。
トランプ氏はサウスカロライナ州で演説を行い次のように語った。トランプ氏はその加盟国の名前は出さなかったが「実際にあったことだ」と主張している。
- ある国の指導者に、NATO加盟国が拠出金を支払わずかつモスクワから攻撃された場合の対応を聞かれた。
- アメリカはNATOの防衛に加わらないとその首脳を叱責した。
- さらに「ロシアは好きなようにすればいい」というだろうと答えた。
東西冷戦終結時に生じた「日米同盟見捨てられ不安」に明確な回答が出せなかった日本はおそらくこのトランプ発言をなかったこととして扱うことになるだろう。「もっとアメリカの武器を買い」「アメリカが提唱する軍事作戦に人を出せば」「アメリカも見捨てないだろう」というのが安倍政権時代までのこの国の回答であり、現在の岸田総理の防衛増税提案もその延長線上にある。アメリカに誠意を見せればアメリカも「悪いようにはしないだろう」という村落的な心情が背景にあるものと思われる。しかしアメリカのある政権に「誠意」を見せてもそれがアメリカ人有権者に伝わるとは限らない。選挙で政権が変わればまた最初からやり直しである。
- ストルテンベルグ事務総長は防衛義務の完全履行を反故にするという仄めかしはNATO全体を危機に晒すと反論した。これはアメリカの兵士をも危険に晒す。
- NATO加盟国の中には2%の軍事費負担を達成していない国がありトランプ氏はそれを不当と考えている。
- 現実的にウクライナ問題の加盟国間の意見の不一致などの「小さな亀裂」が第5条の不履行につながる可能性がある。
アメリカはウクライナに対して多額の財政支援を行なっている。ところが共和党が主導する下院が予算をブロックし今後の支援予算の目処が立っていない。今のところ「国境政策を争点化したいトランプ氏がウクライナ予算を人質に取っている」という見立てが一般的だ。このためBBCの記事はウクライナ情勢に関しては仄めかし程度にしか触れていない。だがトランプ氏が「アメリカはウクライナを守ってやっているのだから当然見返りが必要だ」と主張する可能性はある。
「アメリカは世界を守ってやっているのだからそれなりの見返りがあっても当然である」という不満がアメリカ人の中には根強くあり、近年はむしろ高まっている。リーマンショックなどで生活を破壊された中流層は「アメリカの政府はアメリカ市民を十分に守ってくれていない」と不満を感じておりこの不満が解消していない。この感覚を延長すると「アメリカが自らの支出を増やして世界平和を守ってやっているのに同盟国はちっとも感謝していない」という不満につながる。
さらにトランプ氏の個人的資質にも問題がある。安全保障と経済の区別がついておらず、長期的な国益の維持にもあまり興味がない。
トランプ大統領(当時)は米韓合同軍事演習を中止し同盟国を震撼させたことがある。当時トランプ氏は朝鮮半島からの米軍完全撤退を積極的に検討していたと見られておりその序章ではないかと警戒された。当時この話題に最も敏感に反応したのはNATOだった。同じ理屈でさらなる負担を求められる可能性があったためだ。
第一期目のエスパー国防長官は次のように回顧している。ポイントは安全保障と通商がリンクしているという点と「お楽しみは二期目にとっておこう」という大統領の態度だ。
エスパー前米国防長官は10日発売の回顧録で、トランプ前大統領が在任時に、韓国への貿易赤字に不満を募らせ在韓米軍撤退に固執していたと明らかにした。エスパー氏らは反対。ポンペオ国務長官(当時)が「大統領、在韓米軍撤退は2期目の優先事項にしましょう」と助け舟を出し、トランプ氏も「そうだな、2期目だな」と答えたという。
「アメリカには優秀な閣僚や軍人がいるのだからトランプ氏が暴走してもそれを食い止めてくれるはずだ」と期待する人はいるだろう。確かに一期目のトランプ政権はそうだったようだ。今回のトランプ氏の「ロシアは好きにすればいい」発言は拍手喝采を持って受け入れられている。アメリカは民主主義の国なので最終的には民意が全てを支配する。日本の外交当局者が「アメリカの長期的国益」を丁寧に説明したとしてもそれが一般のアメリカ人に届くとは限らない。
トランプ氏の再選はヨーロッパでは現実的な脅威とみなされている。このためEU内部でトランプ再選時のシナリオを精査し始めている。
この準備協議に詳しい欧州高官によると、トランプ氏のスタイルはますます攻撃的になっており、同氏が返り咲けばEUに対して関税など威圧的な行動に出るだろうとの認識が加盟国間で共有されている。EU各国が来たるべき事態に備えるのは義務だと、この高官は匿名を条件に語った。
前回朝鮮半島情勢の変化について書いた時の主張を改めてまとめる。
- 朝鮮戦争再開のシナリオはまだ現実的なものではないが可能性を無視できる段階でもなくなっている。
- だが、日本の安全保障議論は「東西冷戦・55年体制」当時の構造を引きずっており情勢の変化に対応していない。
- 本来ならば枠組みを作り直して現実的な議論をすべきだ。
- だが、左右共に現在の議論に耽溺しているため、実際に問題が起きた時には対処できないだろう。
今回のトランプ氏の仄めかしにも似たようなところがある。もちろん現在トランプ氏がいうような「拠出金を出さない国」はNATOにはないのだから現実的にトランプ大統領が第5条を履行しないというようなことが今すぐ起きるとは考えにくい。だがディールにこだわるトランプ氏が要求を釣り上げ撤退を仄めかしつつ、さらなる負担増を求めることは十分に考えられる。この時に「安全保障」と「経済」の区別がつかなくなっている可能性もあるだろう。だがおそらく日本の安全保障議論はこのリスクを「なかったもの」として無視し続けるだろう。こうした議論ができる言論的枠組みがないうえに「差し迫った脅威」を認めたくないという正常性バイアスも働くからだ。
憲法解釈を曲げてまで集団的自衛権の行使にこだわった安倍政権下の日本の防衛戦略の背景には見捨てられ不安があったことは間違いがない。だが、安倍政権はそのことについては全く触れてこなかった。岸田政権の防衛増税も同じ背景を共有しているがやはりアメリカの要求については説明をしていない。説明が不十分だったため前者は護憲・左派の攻撃対象となり、後者は現役層が岸田総理を離反する原因となった。岸田総理の防衛増税議論はいまだに財源の目処が立っていない。
政権側が日米同盟の不安定さを説明すると今度は「日米同盟懐疑論」が出かねない。つまり日本政府にとって決して明かしてはならない秘密の扱いだったことだろう。だがこれ以上隠しておくのはもう無理だ。
米韓同盟撤退についての議論を見る限り、トランプ氏は長期的なアメリカの国益には興味がなく経済問題と安全保障問題の区別もついていないようだ。さらに高官がいくら押しとどめても最終的に大統領がやるのだと言えばそれを押しとどめることはできない。
今回の発言は同盟国にとってはかなり厄介な問題だがアメリカ国内ではそれほど大きな問題だとは認識されていない。次から次へと問題発言が飛び出すために一つひとつが全く目立たないのだ。
今週末のアメリカ大統領選挙の話題は「記憶力が限定的と指摘されたバイデン大統領の高齢化問題」とニッキー・ヘイリー氏とトランプ氏の泥試合だった。トランプ氏が「ヘイリー氏が選挙キャンペーンで忙しくしている最中に夫は何をしているかわからない」とヘイリー氏を攻撃し、ヘイリー氏がそれに応酬したというような話だ。アメリカの有権者はおそらくアメリカの長期的国際戦略にはさほど興味がない。一部の人たちは激情化した政治に夢中になり別の人たちはもううんざりだと諦め顔だ。
- Overwhelming majority of Americans think Biden is too old for another term: POLL
- Haley responds to Trump questioning her husband’s whereabouts amid deployment