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河野太郎が嫌われているのかマイナンバーカードが嫌われているのか 能登半島地震における大臣の情報発信が物議

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SNSのXのタイムラインにマイナンバーカードと能登半島地震に関するコメントが多く流れてきた。おそらく一部の人なのだろうが、とにかくとても怒っているようだ。「逃げる時にはマイナンバーカードを持って逃げろ」との河野太郎大臣の主張に「マイナンバーカードを取りに戻って二次被害に遭ったらどうするんだ」などとする感情的なコメントが多かった。

とにかくマイナンバーカードは一部の人からとても嫌われているようだが、その理由がよくわからない。マイナンバーが嫌われているのか、マイナンバーカードが嫌われているのか、河野太郎が嫌われているのかなのだろうが、もはやその分析には意味がないのかもしれない。とにかく「なんとなく」嫌なのだ。

ではなぜ嫌われるのか。「なんとなく」が支配する日本の政治について観察してみた。

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記事を書くにあたって情報を整理した。能登半島地震では被災者の動向把握が重要になる。このために政府はなんらかのデジタルカードを使って動向を追うことにしたようだ。当初はマイナンバーカードが使いたかったがリーダーが準備できなかった。少なくともCNETはそう説明している。

なお、政府はマイナンバーカードの防災活用を掲げているが、なぜ今回はSuicaを使用するのか。こうした疑問に対して河野大臣は「本来はマイナカードでやるべき」としつつ「(NFC)Type-Bに対応したカードリーダーが用意できなかったため、今回はSuicaで代替した」と説明した。

ただこうなると、そもそもマイナカードは複雑すぎるSUICAでいいのでは?という批判が予想される。そこで河野さんは「できれば避難する時にはカードも持って出て欲しい」と発信したのではないかと思う。普通財布くらいは持って逃げるだろうから財布の中に入れておけば良さそうだ。つまり、それほど神経質になる問題とは思えない。

ただ、河野さんの説明にも無理がある。

河野氏は「余計な紐付け作業が必要になる」と言っている。それは確かにそうなのだが、逆に持っていない人はどうするのだろうと感じた。行政機能が破壊されている能登地方の市や町にとって再発行機能の維持管理は難しい課題になるかもしれない。「金沢まで出掛けてください」と言うのも難しい。さらに被災者の住所地確認も困難だ。マイナンバーカードあきりでオペレーションを立てていたら状況はかなり混乱しただろう。

しかしながらネットの反応を見ているともはやそんなことはどうでもいいのだろうなという気がする。とにかく感情的な反応が多く「マイナンバーカードを推進する河野太郎が嫌われている」ように思える。課題と人物が分離できない日本ならではの反応だ。つまり、マイナンバー、マイナンバーカード、河野太郎がセットになっていて全体がなんとなく嫌われている。

ではなぜ河野太郎は嫌われるのか。

河野太郎は被災者や国民のことを考えていない。彼にとって重要なのはあらゆる機会を通じて自分が正しいことを証明することでだけある。この姿勢があまりにもあからさまなために「ああまたか」という感覚に陥る。何かにつけて周囲の官僚を恫喝しているなどという報道もある。「菅首相より厄介なことに…官僚も経済界も「河野太郎首相だけは勘弁してくれ」と口を揃えるワケ」というタイトルがついており「面倒な人」として知られている。自説にこだわり反論をねじ伏せる。部下がついてこないので「全部俺がやる」と宣言し周りを混乱させると言う厄介なリーダー像が定着している。

もちろん「今回の件で河野太郎氏に反発しているのは一部の人なのではないか」という指摘もあるかもしれない。これは確かにその通りである。

むしろ「声を上げないみんな」の反応に懸念がある。

マイナ健康保険証の利用率が下がっている。各紙の報道を読んでみたが「なぜ使わなくなっているのか」について合理的な説明がない。メリットを感じないからというのはおそらく表向きの理由で「なんとなくネガティブな印象がついているから」という人が多いのではないかと感じる。産経新聞によると政府は利用率を高めた医療機関に報奨金を出したりコールセンターを充実させて広報を行うそうだが「なんとなく嫌」と感じる人たちの意識を転換することはできないだろう。

また地方議会からも紙の健康保険証を残してくれいう決議が多く出されているそうだ。これも「なんとなく」不安なのだろう。

近年の日本の政治において「あの人のことがなんとなく嫌い」とか「あの仕組みはなんとなく不安」というような「なんとなく」が極めて重要だということがわかる。合理的な説明よりも「みんなのなんとなく」を読み取る共感性が重要視されてしまう独特の社会ができている。

元々は夢洲に付加価値をつけようとして始まった大阪・関西万博も同じような経路を辿っている。当初の計画にはおそらく国民には知らされていない思惑がある。そして当事者たちが無理やりに計画を推進しようとすればするほど「なんとなく怪しい」とか「なんとなく嫌だ」と思う人が増えてゆく。取り立てて反対する理由はないがなんとなく嫌なので「みんなが苦しんでいる時にお祭りとは何事か」と言う道徳的な反応が出てきた。道徳とはつまり「なんだかよくわからない」ものを抑えるつけるための工夫だ。

ついに高市早苗氏が「私は個人的には反対だが総理がやるというなら尊重します」と表明した。国民の「なんとなく嫌」を感じ取り泥舟から逃げ出そうとしているように思える。

最後になぜ「なんとなく」が支配するような政治状況が生まれたのかを考えてみた。「国民が河野太郎を選んだわけではない」と言う問題がある。なのに河野太郎は嫌なものを押し付けてくる。

小選挙区比例代表並立制のもとで有権者は政治家を選べなくなっている。大体どの候補が勝つかは予め決まっていて無党派層の有権者が入り込む余地がない。選択肢が示されていないので課題について真剣に考える機会もないし「この結論を選び取った」と言う満足感もない。だが国が決めたことなんだろうからと言う理由であえて反対する人もいない。

国民の信託がない選挙で選ばれた代表はつねに国民の「なんとなく」を感じとって「嫌なことや変わったことは一切やりませんから」と言い続けるしかない。国民の顔色を伺った政治しか許されないということだ。

高市さんは「みんなのなんとなく」を汲み取る政治家に人気が集まるということを感じ取っているのだろう。ただし実際に決定してしまうとそれはそれでハレーションが起きる。そこで「言うことだけは言ったが最終的には総理が決めることだ」と責任は回避した。関西の言い方で言えば「ま、知らんけど」ということになる。

おそらく日本にとってこの状況は良いことではないが現在の選挙事情では「ま、知らんけど」だけが正解ということになってしまうのかもしれない。「悲」積極民主主義の行き着く先は「ま、知らんけど」なのだ。

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