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民主主義とジャーナリズムの危うい関係 松本人志氏に対する週刊文春記事は「書いたもん勝ち」なのか?

松本人志氏が文藝春秋社を訴えて裁判を起こした。名誉毀損の賠償金の相場は200万円から300万円程度とされているそうだが、松本さん側の請求額は5億5500万円だ。「書いたもの勝ち」の抑止が念頭にあるものと思われる。東国原英夫氏も主張するように売上に見合う懲罰的な金額がなければ「書いたもの勝ち」が防げない。

実際に週刊誌は完売となり文春はかなりの経済的利益得たと言われている。45万部が完売し有料会員数も伸びているという。確かに他人のプライバシーを暴いてお金儲けをすることには理不尽さを感じる。

だが、今回の問題はジャーナリズムと民主主義の危うい関係を理解する良い助けになる。お笑いタレントの裁判と「民主主義」に何の関係があるのか、ちょっとそれは大袈裟ではないかという批判を予想しつつ論を展開したい。

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そもそも民主主義とは何か。多くの人が「多数派が何が正しいのかを決めることが民主主義であり、選挙は多数派を決める多数決である」と定義するのではないだろうか。その定義をまず仮置きして議論を進めたい。

実は「何を裁くのか」が曖昧だ。民主主義は誰が何を目指すのか以前に「何を課題にするのか」という論点が必要だ。実際には多数派が「何を裁くのか」を決めて「勝手に判決を出している」という側面がある。

確かに週刊文春の報道はジャニーズ性加害事件を想起させるものになっていた。だがそれは空気によって勝手に組まれたアジェンダだ。次第に文春側がかなり念入りに裁判対策をしたことがわかってきている。

性的同意の有無はあまり問題なっておらず「こういう遊び方をしているとみんなが言っていますよ」という報道に過ぎない。さらに「物証」とされるものも存在する。松本さんは「性加害はなかった」と訴えると言っているが、そもそもそれが論点になるのかがわからない。

だがこの一連の報道が確実に破壊したものがある。それが「権威」である。

当初吉本興業側は「書かれたこと全てが事実無根」としていた。しかしながらその後で「参加した女性がお礼を言っている」というLINEが出たことでこれが崩れる。ここで吉本興業側は松本さんをバックアップできなくなった。そこで松本さんは「性加害」はないと言う主張を全面に押し出した。だがこれもどうやら記事の本質でもなさそうだ。またSNSのXの人たちがこれを問題にしているのかが実はよくわからない。

岡田斗司夫氏が松本氏は「お笑いを変えてしまった」と言っている。それまでは聴衆が笑いを決めていたのだが、ダウンタウン以降「わかるかわからないか」と言う基準をテレビが提供するようになったとの主張だ。つまり権威が笑いを提示してそれがわかる人が「センスがある」ということになってしまった。今回も松本さんはこの例に従い「フレームワーク」を作ろうとした。そしてそれに失敗した。この時点で何かが破壊されてしまっている。

この「フレームワークを決める人」という地位は「大衆の総意が善悪を決める」というワイドショー・ポピュリズムと親和性が高かった。流れを作ることで多数派を形成すると言う手法がお笑いコンテンツの量産化を可能とし、それが大衆ジャーナリズムに持ち込まれた。多数派が正義を決めるのが民主主義だとすればこの大衆ジャーナリズムは民主主義の維持に役立つと言える。だが本当にそれが情報ワイドショーの本質的な価値なのかという疑問は残る。

今回の「派手な遊び」は「多数派の考える倫理」とはずれておりその権威に亀裂を加えたと言える。だが、最初の報道の段階ではそれは単なる亀裂であり修復は可能だった。ここで「裁判」を仄めかしたことで松本さんは判断される側に回ってしまう。また。マスコミに「松本人志さんの裁判戦略を考えてあげる」という余地を与えた。マスコミもまた裁判を利用して傍観者という立場を強調するようになった。さらにこの体裁で女性たちの言い分が広く報道されて流れが強化されてゆく。

つまり最初に「事実無根なので戦いまーす」と言ってしまったことが松本さんを追い詰めることになった。

安全な第三者の立場から誰かを裁くのは気持ちがいい。お金を払ってでもそこに参加したいと言う程度には強い願望だ。だから文春は売れオンライン会員数が増えたことからもそれがわかる。

文藝春秋社は過去の訴訟を通じてかなりの経験を蓄積していることを窺わせる。政権批判には常に危険が伴うためジャーナリズムを遂行するためには「負け」の経験も蓄積する必要がある。現在の大手新聞社やテレビ局がやってこなかったことを文芸春秋社だけがやっている。ジャーナリズムは時には権力と対峙しなければならないのだが「どれくらい勝てるのか」という蓄積なしには判断そのものができない。戦ってこなかったマスコミは「書くのをやめるという判断しかできない。その意味では大手新聞社ではなく文藝春秋社だけがジャーナリズムなのだとも言えてしまう。

例えばジャニー喜多川さんの事件では文春の名誉毀損裁判がなければ問題そのものが埋没していた。既存のテレビ局も出版社も経済的にジャニーズ事務所に依存しているため容易にこの問題を扱えなかった。当然、新聞社もテレビ局との間に株式を持ちあっており利益共同体の一部になっていた。これがジャニーズ事務所に対する忖度を生んだことがわかっている。

つまり現在の報道機関は必ずしも大衆の側に立っておらず、一部の人たちの利益構造を大衆に押し付けている。この「自由」が文芸春秋社が支持される理由だ。

文春がこうした利益共同体から自由なのは彼らが「経済的に自立している」からである。週刊文春は野次馬根性と懲罰感情という人の劣悪ではあるが拭い難い本能に依拠している。つまり日本のジャーナリズムを経済的に支えているのは「社会的な善を追求したい」という崇高な理念ではなく「社会的な悪」と名指しされた人たちが落ちてゆく姿を安全な多数派の側から見たいという読者の劣悪な懲罰感情なのである。こうした報道が事態を動かすことが多いのもまた事実だ。だから文春には一定の信頼がある。マスコミの価値を決めるのは「事実の認定力」ではない。長年かけて培われた信頼とポジションなのだ。

竹田聖編集長は「相手がどれほど巨大であっても忖度なく読者の皆様にお届けしていく」と宣言しており、松本人志さんと吉本興業が「巨大」であったことが今回の支持につながったと分析している。だが、よくよく考えてみれば彼らは巨大ではあっても多数派ではない。

今回の件で最も残酷なのはこの点だ。テレビ局が権威化したタレントを使い笑いのスタンダードを流れで決めるとコンテンツの効率的な大量量産ができる。そしてこれに迎合したい人たちがたくさんいる。しかしその笑いは性質上弱いものやセンスがないものを嘲笑するという「嘲い」に変質しがちだ。

弱いものやセンスがない少数派は「いじられる側」の地位を甘んじて受け入れるしかない。これはある種の社会的裁きなのだが人には強いものの側に立って裁きたいという欲望がありそれは「お金を払ってでも参加したい」程度に刺激的な報酬だ。

おそらく裁かれる立場に陥った人は「それとこれとは違う」「自分の置かれた立場は暴力だ」と主張するであろう。しかし、彼らが今まで嘲っていた人たちに同じことを聞いてみればいいと思う。さらに言えばこの人を裁きたいと言う欲求には歯止めがない。こうした欲望に無自覚に晒されている人ほど「もっと強い刺激を」と考えるのではないだろうか。

冒頭の「民主主義とは多数派の形成を意味するのだろうか」という問いは実は答えがない。自分がどちらの立場に置かれたのかで答えが大きく異なってしまうからだ。おそらくテレビも視聴者もこの問題に飽きてしまうだろうが、当事者たちは長い時間をかけてこの答えのない問いに向き合うことになるだろう。

裁判に興味がある人の次の注目ポイントはこの裁判がどのようなフレームで議論されるかだろう。真実相当性と言われるそうだが、そもそも「何の真実を争うのか」という論点の整理をしなければならないとされており双方の主張が食い違った場合はそれ相当の長い時間がかかるようだ。裁判所はさすがにSNSのように流れで「何を議論するか」を決めることはないということになる。

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