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パキスタンとイランが殴り合いの後で手打ち 中央アジアは「喧嘩上等」の世界に逆戻り

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今の民主主義には色々と無理がありすぎる。その点「殴ったら殴り返す」というやり方は明快でどこか安心感を感じさせる。パキスタンが閣議決定を行いイランと仲直りすることを決めた。お互いに殴り合って程良きところで手打ちとしたのだ。

「一件落着」だがその度に民間人が危険にさらされることも事実だ。民主主義の力が弱まりロシアから中央アジアにかけて「力と力による外交」が復活していることがわかる。帝国と帝国の間の領域で常に問題が起きているという中世の復活である。西側がこの「程良きところで喧嘩を収める」やり方に慣れていない。いわば喧嘩なれしていないのだ。日本の安保議論はさらにこの動きについてゆけていない。

この話題に興味を持つ人はさほど多くないだろうが、東西冷戦を背景にした現在の我が国の安全保障の議論には限界があることは知っておいた方がいいだろう。おそらく「限定的集団自衛で日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」とか「日米同盟の維持が日本の絶対的な安全保障につながる」という一連の「あれ」はかつては意味があったのだろうが今となってはもう単なるファンタジーにすぎない。

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イランがパキスタンを攻撃した理由がわかってきた。あくまでも「BBCの分析による」とだが革命防衛隊に対する国内の強硬派の圧力が高まっているそうだ。とはいえアメリカを殴ると仕返しが怖そうなのでパキスタンを殴った。協調関係にあるため「大目に見てもらえるだろう」と考えたようである。

だがパキスタンも選挙を控えている。軍を加えた「四権」がもたれ合っている国なので何もしないという選択肢はなかった。イランはこの反撃に驚いた。

だがロシアとトルコが自制を呼びかけたことで、パキスタン側閣議決定をして「些細なことにいちいち腹を立てるのはよくない」ということにしたようである。

おそらく民間人の犠牲も出ているのだろう。めちゃくちゃな対応なのだが民主主義的なわかりにくい解決策ではなく「叩いても問題がなさそうな相手を叩く」とか「やっぱり黙っていると弱虫と言われそうだからこっちも適当に殴っておく」というわかりやすいやりとりには妙な安心感がある。殴り合いで死んでしまっては元も子もない。「今回はこのくらいにしておいてやる」という一種の阿吽の呼吸をケンカ慣れしていない西側にいる我々が理解するのは難しい。

さらに、このことからイランは本気でアメリカやイスラエルを攻撃することはないのだろうということもわかった。現在フーシ派がアメリカを攻撃しておりバイデン大統領が報復を止められなくなっている。バイデン大統領も本音ではフーシ派拠点を攻撃して問題が解決するとは思っていないはずなのでお互いに「やっている感」を演出しているだけということになる。

日本では反乱勢力フーシ派一味と表現されているが、実質的にはイエメンの革命勢力だ。彼らがイエメンに存続し続けるためにはなんらかの「戦う相手」が必要だ。実は民間人の犠牲を伴うアメリカの攻撃はフーシ派が戦う理由を提供し続けている。アメリカはお金を払って敵を育てていることになる。むしろ問題は喧嘩の加減がわからないアメリカの方にあるのかもしれない。

中央アジアからロシアにかけた一体の権力者たちは常に一体のトラブルを必要としている。これはイスラエルなどの中東も同じことだ。そして西側もそれに対応をせざるを得なくなっている。西側は民主主義こそが世界を繁栄させると言い続けてきたが繁栄の分前を他国に与えるつもりはなかった。独り占めのコストは極めて高くつきそうだ。船賃の高騰はおそらく日本にも物価高という影響を与えるだろう。

このように「繁栄と安全」はもはや無料ではなくなりつつある。特にパックスアメリカーナ(アメリカの平和)にフリーライドに近い形で乗っていた日本への影響はかなり深刻なものになるのだろう。

そもそもアメリカ合衆国の安全保障がどうなるかすら11月の選挙を待って見ないとわからない。それをなんと呼ぶかは別にして、我々はすでに右派左派共に神学論争的な安全保障議論を積み重ねてもなんの意味もないという時代に突入している。とはいえ平和憲法を持っている我が国が「喧嘩上等」の世界に戻るべきだと主張するつもりはない。第二次世界大戦で慣れない喧嘩に手を出した結果として拳を収められなくなり酷い目にあった経験から、日本はあまり喧嘩が得意な国ではないと思うからだ。

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