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ハイルと叫ぶ改憲派

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ああ、またレッテル貼りかとうんざりしている人もいるかもしれないのだが、改憲派はハイルと叫んでいると思う。ここで言いたい重要なことは、改憲案が通ったとしても、彼らの願望は満たされず、さらに暴走するのではないのかということであって、アドルフ・ヒトラーと安倍晋三を同列に語ろうという意図はない。
そもそも、よく知られているように「ハイル」は普通の名詞で、健康とか健全であることを意味する。同系の英語ではwholeという。これを動詞にしたのがhealだそうだ。healには癒すという意味がある。病気は何かが欠落した状態で、完全な状態をwholeというのだ。
この言葉で思い起こされるのがクリントン候補の語った「make america whole again」というフレーズだ。クリントンがどのような意味でwholeを使ったのかは分からないが、トランプ候補の台頭が念頭にあるものと思われる。何かに脅かされた状態を健全な状態に戻しましょうという意味合いだ。外敵の脅威があり、それによって健全さが損なわれているわけである。ただし、この発言はあまり受け入れられなかったようだ。一方、トランプ候補はアメリカが偉大でなくなったのは、中国・日本・メキシコからくる移民のせいだといっている。こちらは健全な状態に戻すために外国を排除しろと言っており、意味合いとしてはヒトラーに近い。
アドルフ・ヒトラーの「ハイル」はドイツが健全であるべきという意味だが、背景には「諸外国との戦争に負けてドイツ民族の偉大さが損なわれた」という含みがあったはずだ。ただし、ヒトラーが最初からドイツを憂いていたとは思えない。自分の人生に欠落があり、それが投影される形で闘争に駆られたのだろう。悲劇的だったのは、このような投影をした人がヒトラーだけではなかったということである。ヒトラーはきっかけを与えただけなのだ。
日本語にはこのような言葉はなく、代わりに「美しい」という言葉が使われている。この「美しい」について定義をした人はいないのだが、初めは「健全さ」の含みが会ったのではないかと思われる。それが敗戦によって損なわれてしまったのである。少なくとも敗戦を経験した人の中にはそのように思った人が多かったのではないかと思う。
そもそも「美しい日本」が盛んに喧伝されるようになったのはいつだっただろうか。よく思い出せないのだが、バブルがはじけてしばらく経った後ではなかったかと思うのだ。日本人が「もうこれまでのように成長できないかもしれない」と思い始めてから、徐々に「美しい日本」が語られるようになった。経済成長によって隠されていた「空虚さ」が別の形を変えて出てきたのが、この「美しい日本」というイメージなのではないかと思われる。将来どのように進んでいいか分からないときに、人は過去を美化してしまうのだ。
常々「美しい日本とは何なのか」と当事者たちに聞いてみたい気がしている。ある人は富士山の完全な形を思い、別の人は整然と手入れされた棚田を思うのかもしれない。別の人は自分が指導者の地位にあり皆が整然と従う姿を想像するのだろう。意外と類型的なのかもしれないし、バラバラなイメージを持っている可能性もある。中には「全く想像できない」という人もいるのではないだろうか。
さて、自民党の憲法案は敗戦の記憶に、政権交代という別の敗戦の記憶が重なって作られている。あの改憲案は二重の敗戦のトラウマから作られている。自民党が「政権党」というアイデンティティを失い、何か別のアイデンティティを作ろうとしてできたのが、あの憲法案だった。自民党は長い間、日本を統治していたのだが、その役割を奪われたときに「自己のイメージ」がないことに気がついてしまった。
今、同じような症状を抱えているのが民進党だ。彼らには「政権を奪還する」という自己意識しかない。それが失われて「公約を公募しようか」というところまで追いつめられた。
例えて言えば「仕事を定年退職したとたんに、俺の人生は何だったのか」と悩むお父さんに似ている。そこで偉大な物語に出会って陶酔する人が出てくるというわけだ。お父さんの場合は家族が泣くだけで済むのだが、政治家の場合は国を巻き込む。
空虚さを抱えた人は、訪ね歩くようになるので、様々な偉大なものに出会う。そのうちの何人かが「日本はかつて美しい国だったのだが、アメリカによって損なわれた」という物語に出会ったのだろう。偉大な物語に出会った人は「全てが氷解した」と思ったのではないだろうか。
よく、憲法も安保もTPPもアメリカから押し付けられたのになぜ憲法だけが目の敵になるのかという話があるのだが、問題は憲法ではなく「敗戦」なのだ。しかし、それも間違っている。実際の不全感はその人の人生そのものに存在するわけだ。あるいは最初から何かがなかったのかもしれないのである。
試しにこの話を人にしてみたのだが、ほとんど理解してもらえなかった。ある人たちはこれを政治課題だと考えていて、憲法の形式論や極東アジアの国防の問題だと考えている。ある人たちは歴史的になぜ安倍政権のような政権ができたのかということを考察している。憲法は当然のことだが政治問題だと見なされているのだろう。故に「美しい日本」とはどのようなものかを聞いて、内省を導こうというのはあまり意味のないことなのかもしれない。周辺にいても分からないのに、当事者に分かるはずはないのだ。
当初、こうした傷ついた自己が偉大な物語に出会うと、破滅への道を突き進むだろうと考えていた。問題解決のためには正しく自己に向き合うべきだろうと思ったのだ。オウム心理教がそうだったし、ヒトラー下のドイツもそうだった。だが、このことについて最近考えなおしている。すぐ近くによく似た例外があるからだ。
北朝鮮は「完全な我が民族」という自意識を持っている。「我が民族は核爆弾も作ったので、今すぐアメリカを焦土にすることができる」と信じているらしい。他に情報ソースがないので「完全な自己」という認識は揺らぐことはない。北朝鮮の憲法は、完全な人権と申し分のない労働環境を保証している。アメリカは北朝鮮の自意識を傷つけていない。敵があることで「我が完全な民族」が浮き上がるようになっている。
北朝鮮はいつ破綻しても良さそうな国家だが、滅びそうで滅びない。日本にも「偉大な民族」という捏造された物語を信じつつ、どの国からも相手にされないで鎖国するという選択肢があるのかもしれない。このまま格差が拡大すれば、大多数は教育が失われおなかをすかせるようになる。すると「自意識」どころではなくなるだろう。
「我々は奴隷のように搾取されている」と文句をいいながら、何の行動も起こさない日本人を見ていると、意外とこういう進み方もあるのかなあと思ってしまうのだ。