馳浩石川県知事がいまだに現地を訪問していないようだという話がある。「嘘なのではないか」と思うのだがスポーツ紙の報道などを否定する人もいない。さらに現地を視察していないにもかかわらず「ここはもうダメだから出ていってくれ」と一方的な説得を試みているという。気持ちが折れかけている人も多い中での地域に対する死刑宣告と言え。どうしてこの知事はここまで残酷になれるのかと感じる。
背景にあるのは政治とパフォーマンスの関係だ。部外者が増えて見た目重視の政治が行われるようになると議論が雑駁なものになる。我々が今見ているのはパフォーマンス型政治の弊害だろう。
このエントリーでは馳浩知事の冷淡さについて考えてゆきたい。パフォーマンス政治の弊害があるがおそらくご本人は自分の残酷さには気がついていないのではないかと思う。ざっくりと定式化すると次のようになる。
- SNSによる「外野」の議論が増えており議論が両極端に偏りがち。これは平時の選挙でも見られる。
- 外野が増えるとパフォーマンス型のリーダーが好まれるが、有事になると機能不全に陥り状況を混乱させる。自分の頭で考えて相手を思いやることができない
- 現場はこの2つに疲弊している。やる気を失い指示待ちになることが多い。そもそもこの「やる気の喪失」を説明しようとすると日本語が使えない。
まずなぜ急遽岸田総理の訪問が決まったのかについて考える。実は天皇陛下が現地視察を要望されている。「象徴的統治者」としてもまたお一人の人間としても「現地で何が起きているのか、人々はどういう気持ちでいるのかを知りたい」と考えるのは自然なことだ。
宮内庁は「現地の状況を見て考える」と言っているが、国と地方の行政のトップが「現場で何が起きているのか知りません」では話にならない。ここでようやく「やっぱり総理も行かないとダメなんだろう」ということになったのではないかと思う。
岸田総理は現在「政治と金」の問題を抱えていて永田町を離れたくない。無派閥の人たち(菅義偉、小泉進次郎両氏)が盛んに派閥解消を訴えているため議論の先行きが見通せない。また麻生副総裁は訪米中なので国民に発信力がある無派閥を@総裁自らが先頭に立って」監視しなければならない。また検察の動向も気がかりだ。陛下訪問の話がなければこのまま現地視察はなかったのかもしれない。岸田さんにとっても「我がこと」は自民党の組織統治だけであとはすべて「他人ごと」なのかもしれない。
その一方で「震災対応をパフォーマンスに利用したい」という気持ちはあったようだ。だが現場からの情報が一向に上がってこない。ダイヤモンド・オンラインに取材を交えた記事が出ている。焦った岸田総理が直接介入した結果として現場が混乱したという。賞味期限切れ寸前のおにぎりが送られてきたというエピソードが象徴的に使われている。
こうした構図は現在では珍しくなくなった。日本語では「現場の士気の低下」などと言われるが関わる意識(ステーク)や所有感覚(オーナーシップ)がなくなっているため、現場から情報が上がってこない。こうした混乱は新型コロナ対応でも見られたし、マイナンバーカードの混乱でも見られた。
マイナンバーカードの普及においても成果を求められた地方が混乱を引き起こしたが今回も「とにかく揃えろと言われたから食料を調達した」と言えるだろう。前回は民間から送られてきた賞味期限切れの食料品について紹介した。共通点は「送られた相手について想像力が働かなくなっている」という点だろう。自分達の組織を守るために精一杯になっていて相手のことまで気を配っている余裕がない。
政府は観光産業を復興させるために「無担保融資を用意しました」などと言っているが、事業者はお金を借りて延命してももう観光産業そのものが成り立たないのではないかと感じているはずだ。
官僚組織だけでなく地方行政からもやる気が失われており「言われたことだけやっていればいいや」「聞かれたことだけ答えればいいや」という気持ちがあるのではないかと思う。
被災地の状況を押しはかることしかできないが、能登半島にいる人たちと金沢にいる県職員の間にも意識の差があるのかもしれない。とにかく情報が降りてこないという報道はよく目にする。中には頑張っている県市町職員もいるはずだが「上の方の人たち」との温度差が気になる。コロナ対応にしてもマイナンバー対応にしても窓口で話を聞くと「情報が降りてきてから考えます」という人が多かった。全体感覚が失われた結果として行政の現場には無力感(アパシー)が広がっているのではないかと思う。
陛下が訪問の意向をお持ちでありそのためには岸田総理も被災地にいかなければならない。そこで馳浩知事はようやく「ああ自分もいかなければダメなんだろうなあ」と考えたようだ。
この受け身の姿勢とその残忍さよく現れているのが移転対応に対するメッセージの出し方だ。
現地を訪れてもいないのに「もうここはダメだから集団移転してくれ」と一方的に主張しているそうだ。実質的な地域に対する死刑宣告と言ってよい。日経新聞は石川弁で「必ず帰るようにすっから」と約束したというお涙頂戴のエピソードを載せている。現地も見ずに具体的な計画も示さずなぜ「必ず」と言えるのだろうかという気がする。選挙運動ではこの程度のあやふやなパフォーマンスでなんとかなったのかもしれない。
とここまで書くと「能登半島が過疎化しているのは確かなのだからこれは現実的な対応なのだ」と反論する人が出てくるだろう。確かにそれはその通りだ。能登半島は特に高齢化が進んだ地域であり現地の人たちも「もうここには住めないのではないか」と考える人が多い。特にまだ移動ができる現役世代はその気持ちが強いようだ。うすうす「復興は無理なのではないか」と考える人たちに寄り添い段階を踏んで現実的な復興計画を立てる必要がある。一方で高齢化した人たちは移転しただけで生死に関わるリスクにさらされる。リロケーション・リスクという。
さらに能登半島と言っても幹線道路が通じている地域とそうでないところでは状況が異なる。突端にある珠洲市でも仮設住宅の建設は始まっている。孤立しているのは枝葉にあたる地域だ。また衛生面を考えると金沢市以南の方が条件がいいという現実的な問題も無視はできない。
苦渋の決断を受け入れるにせよ支援を断って自活を目指すにせよ「ああ相手は自分のことを考えてくれているのだな」という感覚は重要である。
緊急時のリーダーにはさまざまな条件を考えた上で「自分で考えて自分で行動し周囲を巻き込んでゆく」ことが求められる。おそらく馳浩さんは政治を「興業(ショー)」だと考えているのだろう。パフォーマーとリーダーは適性が違う。
実は千葉県も同じ経験をしている。
俳優出身の森田健作知事は特に房総半島などの地方部で人気が高かった。地元の政治家もパフォーマンス重視で地元の利権にあまり関心がない森田さんは担ぐのに都合が良かった。また国土交通省に近いため陳情にも便利な人だった。つまり何もない時にはうってつけの便利な知事だった。
だが有事にはこれが裏目に出た。森田さんは房総半島が台風被害を受けた時「自分の家は大丈夫かな」と考えたようだ。まず自分の家を見にいってしまった。これが批判されると知事職が面倒になったのだろう。最後はリサイタル気分で「さらば涙と言おう」を歌って任期満了で県庁を後にしたそうだ。
とにかく自分をよく見せたいという人が有事に接すると「これをどう利用したら俺はカッコよく見えるのかな」と考えてしまうのかもしれない。
だが千葉県の有権者が森田健作さんを選んだことも確かだった。「平時」にはどうしてもパフォーマンス重視で見た目の良い人が選ばれてしまうということになる。
現地の状況はかなり複雑だ。SNSでは移転すべきか復旧を目指すべきかという「白黒」議論が溢れている。このブログにも「白黒がはっきりした」コメントが寄せられる。実際に必要なのはまず現場をできる限り把握した上で、住民を巻き込んだ丁寧な議論を行うことなのだが、それができていない。背景を分解すると3つの要素があることがわかる。
- SNSによる「外野」の議論が増えており議論が両極端に偏りがち。これは平時の選挙でも見られる。
- 外野が増えるとパフォーマンス型のリーダーが好まれる。有事になると機能不全に陥り状況を混乱させる。自分の頭で考えて相手を思いやることができない
- 現場はこの2つに疲弊している。やる気を失い指示待ちになることが多い。
特に三番目の「やる気」だが「モチベーション」も「オーナーシップ」も「ステーク」も「コミットメント」も全て英語表現だ。「主体性を持って組織に関わってゆく」ことを表現しようとするとそもそも日本語が使えないのである。