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日本国憲法に「緊急事態条項」ができるとどうなるのか リセットボタンを失ったイスラエルの事例

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SNSのXでフォローしている人の中に左派が多いからなのかもしれないのだが「憲法に緊急事態条項が作られると選挙がなくなり戦争が起きる」という声をよく目にする。「左派の妄想だろう」と思う人もいるかもしれないのだがイスラエルがそんな状況になっている。類似点と相違点を調べて主張の妥当性について検討する。

汚職で後がなくなったネタニヤフ首相は一旦下野するのだが極右と組んで政権に復帰した。ここに10月7日という偶然が重なったことで「戦時内閣」が作られた。現在では首相の支持率が15%まで落ち込んでいるためネタニヤフ首相は戦時内閣をバラしたくない。イスラエルはこうして選挙を回避している。イスラエルは次々と問題を作り出しておりアメリカ合衆国も含めて誰もそれを止められなくなっている。

選挙は政治膠着のリセットボタンだ。この仕組みが壊れてしまったことでイスラエルは破綻の道を突き進んでいる。自民党が提案し維新と国民民主党が賛同する緊急事態条項にはそのような危険性がある。緊急事態条項の問題は独裁ではない。国民の支持が得られる政党や政治勢力がなくなり政治が膠着することが問題なのだ。

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まずイスラエルと日本の違いからまとめておきたい。

  • 日本には憲法があるがイスラエルは憲法をまとめられなかった。このためイスラエルでは最高裁判所が最後の砦になっている。
  • イスラエルの緊急事態は戦争だが日本の緊急事態の想定は自然災害だ。戦争は作り出すことができるが自然災害は作り出せない。ただし現在の憲法草案の想定に「自然災害に限る」という条項はない。
  • イスラエルは比例代表制なので政党が乱立しやすい。一方日本は小選挙区制なので事前の選挙協力がなければ支配政党を成立させられない。これは日本の野党共闘を見ているとよくわかる。選挙協力できないことが誰の目にも明らかなのでそもそも投票の選択肢にならない。つまり政党が健全に機能している状態では膠着状況は生まれない。

イスラエルのネタニヤフ首相は長期政権を維持するうちに汚職にまみれてしまった。このため一旦は政権を失う。だが、ライバル政党群も一枚岩になれなかった。この時に首班だったのが新右翼のベネット氏とジャーナリストから転身しイェシュ・アティッドを設立したラピド氏だ。思想の異なる政党の連立だったっため予算などで意見の相違が生まれ政権は瓦解した。

この後にネタニヤフ氏が極右と組み政権に復帰した。

この時、ネタニヤフ氏は「青と白」とも協力関係を作ろうとした。軍の参謀総長を務めたガンツ氏を政権に引き込もうとしたのだ。ガンツ氏の方向転換に対してアティッド氏が反発しイェシュ・アティッドは「青と白」を離反する。ネタニヤフ氏が最初に首相をつとめガンツ氏に変わるという計画だったが汚職事件が起こり両者は対立した。ガンツ氏が政権を離れるとネタニヤフ氏は政権を維持するためにますます極右に傾斜してゆくことになった。

鍵を握るのは「極右」と表現される超正統派である。ユダヤ教の経典を厳密に守っているため労働を嫌い兵隊にも行かないがイスラエルは超正統派を特別扱いしている。聖書の教えを守り避妊をしないため出生率が高く政治的な発言権も増している。

超正統派は戦争には参加しないが「カナンの地は全てユダヤ人のものだ」と頑なに信じており西岸からパレスチナ人は出てゆくべきだと考えている。そのために邪魔な存在が最高裁判所だった。憲法がないイスラエルでは最高裁判所が議会をブロックできる。議席が増えている超正統派はこれが気に入らない。汚職捜査に辟易していたネタニヤフ首相と超正統派は意見が一致した。そこで始まったのが「司法改革」だった。最高裁判所の差し止め特権を剥奪しようとしている。

司法改革の結果、イスラエルの民主主義が壊れると考えたテック企業の人たちはイスラエルを離れることを考えるようになる。またイスラエルをユダヤ教至上主義の国にしたくない軍を背景にする人たちも超正統派の改革には反対だ。

ここに10月7日の事件が起きる。もちろんネタニヤフ氏がハマスをけしかけたわけではないのだろうが「これ幸い」とばかりにネタニヤフ、ガンツ、ガラント、ラピド、超正統派が集まって「戦時内閣」を作ろうとした。挙国一致内閣が作られている間は全ての上級職は職に留まることになる。

ここに出てくる人たちは全て政治上のライバルである。ガラント氏は参謀総長の椅子をガンツ氏と争っていたが直前に自宅近くの公有地を押収した疑いが持たれ任命されなかったという過去がある。つまり戦時内閣は派閥の領袖が集まって作られた「休戦協定」のような機能を持っている。お互いがお互いを監視しあうことで「誰にも勝たせないから誰も負けない」という談合なのだ。

挙国一致内閣はどの勢力に取っても都合のいい内容だった。司法改革を嫌っていた軍出身者は「司法改革関係の法案が凍結された」ことに安堵した。一方でネタニヤフ氏も「上級職は職にとどまれる」のだから裁判から自分を守ることができる。そして極右の人たちも西岸で好き勝手なことができる。

ラピド氏はここには参加しなかった。

最初に書いたように日本との明らかな違いもいくつかある。第一に戦争と自然災害という違いがある。新しい自然災害を起こす事はできない。だが現在の提案に緊急事態は自然災害に限るという縛りはないはずだ。あるいは台湾有事などを持ち出す人もいるだろう。

また、日本の政治制度は二大政党制を志向した小選挙区制なのでかろうじて政党単位の政治が行われているがイスラエルは比例代表制だ。これは大きな違いのようなのだが、実はそうでもないのかもしれない。自民党内の派閥を政党に置き換えると派閥の領袖クラスの人たちが離合集散を繰り返している今の姿はイスラエルの状態にそっくりだ。勝ち組がいなくなり選挙もできなければ状況は膠着する。

日本の左派の想定にはいくつかの問題がある。

まず決定的に間違っているのは「緊急事態条項ができると戦争が起こる」という部分だろう。さすがに独裁のために戦争を作り出すということまでは起こらない。目の前にある危機が積極的に利用されるだけだ。

次に間違っているのは独裁が起きるという部分だ。イスラエルの例を見ると独裁ではなく膠着が起きている。ヘゲモニーを握れる政党や政治家がいなくなると結果的に「混乱に乗じた翼賛体制(イスラエルでは挙国一致内閣と言っている)」が作られる。意思決定が極めて曖昧になり誰にも何も決めさせないという体制でひたすら危機感が煽られたり作り出されたりすることになる。現状が固定されることでコース移動が起きなくなる。第二次世界大戦の翼賛体制と同じ要領で失敗する可能性が高い。

つまり、現在の緊急事態条項で「強い独裁体制」が作られることではない。誰からも政治が支持されなくなった結果として選挙によって勝ち組を作ることができなくなると、政治家が談合して選挙を止めてしまうことが問題なのだ。政治家は選挙さえなければいつまでも自分達の地位を守ることができる。つまり有権者を「敵」と見做した場合イデオロギーを超えて協力する動機が生まれてしまう。

緊急事態条項をどうしても入れたいのなら国民にもリセットボタンを持たせなければならない。例えば「いざというときは良心に従って法律違反を認める」という抵抗権などがそれに当たる。アメリカ・フランスのような革命国家やドイツのような民主主義の失敗を経験した国では認められている権利だが、そもそもそんな権利を入れてまで緊急事態条項をごり押ししたいという動機が見当たらない。

自然災害なら1年単位で収まる。日本はイスラエルのように何年も続く戦争を前提にした国際環境にはない。どうしても緊急事態条項を入れたいのならリセットボタンも付け加えるべきだがそこまでして緊急事態条項を入れる理由が見当たらないのだ。

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