2023年12月13日に旅館業法が改正され「ハラスメント客」の宿泊を拒否できることになった。また、東京都がカスタマーハラスメント防止条例の検討を始めたというニュースが出たのは2023年10月31日のことだった。
このようにカスタマーハラスメントが社会問題化しており政治は「カスタマーハラスメントを禁止」する方向に動いているようだ。
禁止をしただけではカスタマーハラスメントは無くならないのではないかと感じ「そもそもなぜカスハラが状態化」したのかをまとめておこうと考えた。見えてきたのは「知識継承」という生産性に関わる問題である。知識継承の砂漠化が顧客満足度を低下させカスハラの蔓延につながっている。
カスタマーハラスメントは「お客が無理難題を従業員に押し付けること」を意味しているが、実際にはお客と企業側の双方に原因がある。
顧客側には2つの問題がある。まず顧客に余裕がなくなっている。嫌な思いをしたなら別の選択肢を選べばいいというのだが「お金がなくてこの選択肢しか選べない」もしくは「時間がなくてトラブルに対応できない」という余裕のなさが切迫感を生む。
さらに顧客接点が砂漠化したことでどのように企業と接していいかわからないという人も増えている。かつては高級なレストランやホテルでは顧客側もそれなりに振る舞う必要があった。つまり顧客も企業によって育てられていたのだ。この関係がなくなりつつある。
顧客接点の砂漠化は徐々に進んだために企業にも顧客にも自覚症状がない。このため「条例を作って禁止する」というような解決策しか出てこなくなってしまったのだろう。
従業員の側の問題はもっと深刻だ。企業に対する帰属感情がなくなり、目の前でこなす仕事の意味もわからなくなっている。こちらも顧客接点の砂漠化として説明できる。具体的にはこんな感じである。
- あらかじめ書かれているマニュアルが想定しない問題には対応できない。
- システムの操作がメインになっている現場では、システムをどう操作していいかわからない。あるいはシステムがトラブルを想定した設計になっておらず対応できない。
- アルバイトまたはパートなので自分の仕事に責任を持つ気になれない。またさまざまな仕事を押し付けられているためお客さんに対処する時間がない。
- トラブルがあっても「現場でなんとかしろ」と言われてしまい上司が支援してくれない。このため上司にも顧客トラブルに対処するノウハウがない。
どうしてこうなったかを考える前にバブル期以前はどうだったのかを知る必要がある。日本企業は家族的な終身雇用とマニュアルに書かれない暗黙知の組み合わせが特徴だった。1980年代までは欧米から羨ましがられており経営学の分野では「日本から学べ」という風潮があったくらいだ。暗黙知(野中郁次郎)やカイゼン運動(トヨタ)などが有名だ。
アメリカの会社は権限をジョブディスクリプション(職務権限)で明文化する。そして形式的知識を大切にしている。一方で日本の会社は「親密な甘えあい」の関係を持ちマニュアルに書かれていない暗黙的知識を共有するという形で成功してきた。1990年代までのアメリカ企業はむしろこの日本のやり方を盛んに学びたがったがこれが当たり前の日本では研究されず従って暗黙知の継承と従業員の動機付けを維持する努力も行われなかった。
この終身雇用を数年のうちに崩壊させたのがバブルだった。だが、急には正社員を切ることができないので非正規雇用への転換が行われた。バブル期に入社した人たちは管理職になることができず知識を後輩に伝えることができなくなった。引き継ぎたいと思っても「下」が入ってこないという状態はしばらく続いた。指揮命令系統にいるのはパートやアルバイトばかりだが、彼らに正社員のような仕事をさせるわけにはいかない。
バブルが崩壊したのは1991年から1992年にかけてである。政府は非正規雇用の対象を拡大させることで企業のニーズに対応した。この結果職場の分断が進みますます知識継承が行われなくなった。
派遣業は1986年に13業種で始まったが半年後に3業種が追加された。次に10業種が加わったのが1996年だった。さらに1999年にはポジティブリスト方式からネガティブ方式リストに変更された。1996年の改正は橋本内閣であり1999年のポジティブリスト化を行ったのは小渕内閣だった。
ちょうどこの頃に最初のクレーム事件が起きている。それが東芝クレーマー事件である。1999年のことだった。1999年なのでまだSNSは登場しておらず「ホームページ」での情報発信だった。既に家電メーカーで顧客サービスの劣化が始まっていたことがわかる。SNSがないために拡散はされなかったが週刊誌などで取り上げられネット掲示板経由で広がってゆくことになった。ホームページを開設した人は「予想もしなかったほど多くの人が関心を持ってくれた」と言っており同じような体験をしていた人たちが多かったこともわかる。
1990年代までの日本の会社のコールセンターは企業内部に置かれていた。そこにはオーナーシップを持った管理職がいてお客の要望を丁寧に聞き取ってきた。家電や自動車の場合には協力会社も重要な役割を果たしてきた。パナソニックには今でも「パナソニックのお店」がある。彼らは「あなたの街のでんきやさん」と呼ばれている。彼らとパナソニックは「家族ぐるみ」の付き合いだが、「あなたの街のでんきやさん」もクライアントと世代をこえた交流をもっている。かつて企業は顧客から企業までの情報ルートを持っていた。これが破壊された結果起きたのが東芝クレーマー事件だった。
次に大きな変化が起きたのが小泉政権時代である。2004年に製造業の派遣が解禁された。「正社員化」を促進するために紹介予定派遣が導入されたがコストカットを優先する企業は雇い止めを行うようになった。この頃の事情を書いた記事が見つかった。ヨーロッパで失業率が高止まりした結果として有料職業紹介や派遣が容認された。日本もこれを批准すべきだということになった。1999年に原則自由化され「当面禁止」だった製造業への派遣が2004年に解禁されたのだそうだ。
インターネットの発展に伴い「掲示板システム」が発展した結果2004年には電凸・企業炎上という文化が生まれている。企業の顧客接点が砂漠化する一方で苛立ちを募らせたネット市民が「市民運動」として炎上文化を生み出した。顧客(彼らは労働者でもある)と企業の距離が離れてゆくに従ってその関係は極めて冷淡なものに変容していったのである。
問題は派遣労働そのものではなく、派遣労働に合わせて企業文化を変えてゆくことだったのかもしれない。だがそれまでの職業慣行を当たり前のものと考えてきたことで研究は進まず、目の前で失われつつあるのかという分析も進まないままリーマンショックを迎える。急激に経済状況が悪化して派遣切りが起きた。さらに2011年に東日本大震災が起きると災害情報の提供で大きな役割を果たしたTwitterが一般化する。掲示板の炎上文化が大衆化されたのはこの頃だろう。「Twitterに書くぞ」と企業を脅したり従業員の名札をアップすることが社会的懲罰を加えることができるようになった。
企業が人件費を削り始めると顧客が余裕を失い価格志向に走る。顧客が価格志向に走ると贅沢な顧客対応を続ける余裕がなくなる。そこで国内家電産業は次々と顧客対応をアウトソースするようになる。顧客からの情報は入らなくなる。さらに価格思考が強まり顧客対応ができなくなる。このループが顧客と企業の双方で起きており顧客接点の砂漠化が起きている。接点が錆びると情報が伝達されなくなる。結果的に声を大きくするしかなくなり炎上する確率が高まるのである。企業は顧客のニーズを新製品開発に活かせなくなり製品やサービスの開発力も落ちていった。さらにこれが価格志向を生み出す、満足ができなくても安ければいいやと考えるようになってしまうのだ。
クレーマーの増加は情報伝達回路のサビで説明できる。通信状態が悪くなると大声で話すしかなくなる。確率は低いものの稀にSNSで話題となり企業に「炎上」として襲い掛かる。気がついてみると国産の家電製造業は次々と中国や台湾などの外資に買収されてしまった。製造業・サービス業問わずカスタマーサポートの外注化、スタッフの非正規化はその後も進み始めると、企業と顧客の関係はますます敵対的なものに変わってゆく。問題解決よりも炎上を恐れるようになりサポートはますます何もしてくれなくなった。
次の変化が起きた原因は人手不足とキャッシュレス化である。人口が減り始めたのだ。特にアルバイトの若い労働力が「調達」できなくなった。さらにコロナ禍で接触が避けられるようになると人件費削減のためにセルフレジなども増えてゆく。例えばコンビニエンスストアで支払いをするときに「Nanacoで」とお願いすると黙ってレジを指されることが増えた。「お前が勝手にやれよ」ということなのだろう。買い物で会話をすることがなくなると「知らない人と話すのが億劫だ」と考える従業員が増えていった。
カスハラをテーマにした漫画があるので読んでみた。突然スマホをむけてくるお客さんも怖いのだが、従業員の方もただただ怖がるばかりで「従業員に改善を働きかけてみよう」という発想が最初からないようだ。このような従業員に「オーナーシップを持って顧客に対応しろ」などといってみてもそもそも何のことだかわからないだろう。結局「お客さんは怖いものだ」と考える従業員は辞めてしまうわけだからますます非接触が広まることになる。
つまり砂漠化は第二段階に入っている。こうなると根本原因を取り除きましょうという悠長なことは言っていられなくなる。
東京都ではカスハラ防止条例を制定しようという動きがあるそうだが「定義が難しい」という理由でなかなか具体的な条文を作ることが難しいようだ。トラブルがあった時に裁判が起こせるように音声を録音しようという対策も考えられているそうだが「余裕がないから録音装置に補助を出してくれ」という声もあるという。
サービス業と製造業は顧客接点を絞ることでこうした問題を回避しつつある。日本の家電メーカーは面倒な個人向け家電事業を切り離し中国や台湾に売っている。逃げ遅れたのが運送(タクシー・鉄道)とホテル・旅館だ。カスハラのターゲットになっている。既に親密な店員とのサービスを知らない人もいて「怒鳴ることでしか相手に要求を伝えられない」という人も増えている。
同じようなことは教育現場でも起きていてこちらは「モンスターペアレント問題」と呼ばれている。アルバイトと違って簡単に止めることもできないため、20代の先生から潰れてゆくそうである。公立の学校だけで6000人以上の教員が精神疾患で「戦線」を離脱している。
こちらも教育現場で予算が足りないとか個人のニーズに合わせた柔軟な対応ができないという問題だ。カスハラとモンスターペアレントには「しわ寄せが若くて弱い人に向かう」という共通点がある。管理職は殺伐とした環境から逃げることを学んでしまっており最前線に全てを任せたまま放置してしまうのだ。社会人になりたての人たちがそもそも顧客との対応方法に熟達しているはずはない。こうして顧客接点の砂漠化は今も悪化の一途を辿っている。