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岸田文雄総理と林芳正官房長官の本当の関係はどうなのか 複雑な宏池会の歴史に翻弄される二人の関係

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安倍総理が林芳正氏を官房長官に指名した。色々な人に断られたことから岸田総理はかなり追い込まれてるのではないかという人もいれば、身内で固めるためにわざわざ断られそうな人に声をかけたのではないかなどする人もいる。とにかく様々な憶測が飛び交っている。

林氏を内閣に入れる引き換えに麻生氏と森山氏にかなり配慮を見せたともいわれているそうだ。これまで安倍派の既得権だった総務大臣は麻生氏に近い幹部の松本氏が「継承」した。農林水産大臣の坂本氏は森山総務会長の側近だそうだ。経済産業大臣の齋藤健氏だけが無党派だがこの人は石破さんのグループにいた人なのだという。安倍政権で石破茂を応援するなら辞表を書けと脅された経験があるそうだ。

この二人の関係を見ていると「派閥」というものにもがき苦しみ心理的に抜け出せなくなっている岸田文雄さんという人がよくわかる。おそらくご本人たちにも自分達の関係がどんなものなのかはよくわかっていないのかもしれない。

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林芳正氏は1961年1月19日生まれ。東京大学法学部を卒業後ハーバード大学に入学経験した。一時大学を離れていたようだが最終的にMPAコースを修了しているそうだ。父親は下関を地盤としている林義郎氏で政治家の家庭に育った。大学卒業後は三井物産に入社したがその後林家のファミリー企業であるサンデン交通に入社し社長秘書を務めた。地元の有力企業である。

極めて優秀な人だが林家は山口でかなり辛い思いをしている。林義郎氏は安倍家に選挙区を譲り3区ものちに二階派の重鎮となる河村建夫氏に渡っている。地元下関は安倍家に渡った。結果的に林家は「お城」を失い参議院に回っている。初当選は1995年で2012年に参議院議員として総裁選挙に出馬した。古賀誠氏の強い要望があったと言われているが5人中最下位という結果だった。2021年の選挙では衆議院(山口3区)からの出馬を表明。結果的に河村建雄氏が引退に追い込まれた。総理大臣への強い意欲があったと言われている。

岸田文雄氏は1957年7月29日生まれ。開成高校に進んで東京大学を目指し二浪するも叶わず早稲田大学法学部に進んだ。父親は官僚から衆議院議員になった岸田文武氏。日本長期信用銀行に就職するが父親の秘書に転身する。いち政治家としては目立ったライバルもなく順当だった。初当選は父親の地盤を引き継いだ広島1区からだった。1993年のことである。家格としては林氏に非常によく似ている。また宏池会で古賀誠氏に近かかったという経歴もそっくりだ。つまり二人はかなり政治的経験や背景を共有している。

岸田氏は森内閣討伐の加藤の乱に血判状をしたためて参加したとされているが乱は鎮圧されてしまう。この時の経験がもとになり表だった政争には慎重になったといわれている。鎮圧後は古賀誠氏について堀内派に所属した。つまり最終的には反加藤に寝返ったことになる。これが2000年のことだったそうだ。加藤の乱は当時の野中広務幹事長に鎮圧されたが森内閣は混乱する。ニューリーダーと呼ばれた加藤紘一・山崎拓・小泉純一郎のうち2名が脱落し、のちの小泉内閣の基礎が造られた。つまり清和会支配の元になった事件だった。

一方で林氏氏には加藤の乱では目立ったエピソードがない。

その後、宏池会は加藤の乱についていった人たちとついてゆかなかった人たちに分裂する。ついてゆかなかった人たちは「新税制研究会(堀内派)」を結成した。古賀誠氏は野中広務幹事長の後任として幹事長の椅子を手に入れた。「加藤の乱」を内部から防いだ功績によるものとされている。つまり「裏切り」で地位を手に入れたのだ。だが加藤の乱で清和会支配が確立したために古賀誠氏は「反小泉」を貫いた。

かつては主流派と言われた宏池会だが小泉政権下では「清和会とどのような協力関係を築くか」で軋轢を抱えるようになったようだ。古賀誠氏はあくまでも反清和会だった。一度は袂を分かった谷垣氏のグループが合流し麻生派も含めて大宏池会を再び復活させようとする構想もあった。

小泉後、安倍・福田と2代清和会系内閣が続いたが長続きしなかった。麻生派があくまでも麻生総裁・総理を主張したために、古賀氏率いる宏池会と麻生派の関係は悪くなり、今でも福岡県ではこの二人が争い続けている。ようやく宏池会系の麻生内閣が誕生するが政権運営は難航しリーマンショックも加わり自民党は大混乱に陥り政権を失った。

下野した後、宏池会系の谷垣禎一氏が総裁となり体制の立て直しを図る。谷垣禎一氏は古賀誠氏に「総裁として再選させてくれ」とお願いにゆくのだが、古賀誠氏はなぜかこれを断ってしまう。この時に代わりに推したのが林芳正氏だった。だが冒頭に述べたようにこの計画は失敗する。結果的に安倍晋三総裁が誕生しのちに総理大臣になった。古賀氏は影響力を失い岸田文雄氏がそのまま派閥の会長になった。

岸田文雄さんという一人の政治家は信念から加藤紘一氏についてゆこうとするが鎮圧される。そして寝返ったという裏切り行為の論功行賞で地位を手に入れた古賀誠さんについていった。ところが古賀誠さんは自分ではなく林芳正さんを後継者として可愛がった。岸田文雄さんはいくつかの幸運が重なり宏池会領袖の椅子を手に入れたが決して実力によるものではなかった。血筋となりゆきに過ぎない。

さらに加藤の乱の記憶もあり表だった政争には消極的だ。この消極姿勢は同じく加藤の乱に加わった菅義偉前総理にも言える。菅義偉氏は「この一件で」しらけてしまい以降派閥は組織していない。

二人の関係は岸田さんの方がやや先輩だが両者とも年齢も当選の時期も近い。また政治家の家に生まれて政治家を継ぐ運命にあったという点も酷似している。同じ政策集団に属しているために話が会いやすいという共通点もあるだろう。

おそらく岸田氏と林氏の個人の関係が悪いというわけではないのだろう。問題を複雑にしているのはおそらく古賀誠氏という長老だ。反清和会を貫いた人であり麻生氏との関係も極めて悪い。古賀氏は後継者として林氏を可愛がる。岸田氏はそんな師に離反するように麻生氏にすり寄り清和会と協力して政権を維持してきた。この緊張感系があるため岸田氏は宏池会を林氏に任せきることができず常にナンバーツー扱いしてきた。派閥からの離脱を表明したことになっているが後継会長は置いていない。

今後、岸田氏主導で政策集団改革が行われると言われている。元々世襲や派閥に対する理不尽さを感じている政治的世代だが、結果的には血統の力でプリンス候補となり派閥の力で押し上げられたという政治的経歴を持っている。

おそらく「脱派閥を成し遂げて健全な自民党を作りたい」という意欲は嘘ではないのだろうが背後にいるのは派閥の亡霊のような人たちであり、手のひらを見るとべっとりと真っ赤に染まっているということだ。さらに「既得権益者の名門」という血も流れている。岸田氏が政党改革にどのような答えを出すのかに期待したい。

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