岸田政権の減税政策が批判されている。こうなると野党に期待が集まりそうだが、野党は野党でゴタゴタしている。特に立憲民主党の選挙戦略が迷走しているようだ。泉代表が日本共産党に接近したが、その後「単なる挨拶だった」と修正した。背景にあるのは根強い「共産党差別」である。これについて考えてゆくと「日本国力の衰退」という根本問題に行き当たる。
おそらく今の政党の課題は国力衰退問題をまずは受け止めて「受け入れるか抵抗するか」を決めることだ。与野党共にそれができていない。政治は何もできなかったと言う現実を受け入れるのが難しいからだろう。
「立憲民主党が共産党と選挙協力を模索している」とニュースになった。ただし具体的な内容については全く語られなかった。極めて場当たり的でその場凌ぎと言った印象だ。
労働組合や市民運動に支えられた立憲民主党の党勢の行き詰まりが背景にあるのだろう。ある程度コアになる組織はあるがそこから先に支持を伸ばすことができていない。政権奪取を目指さなければそのままの勢力は維持できるが政権批判の動機は失われる。野党は選びきれていない。
根底にある問題を解決しないで生き延びるための選択肢は二つある。一つは「同じ労働者の味方」と組むことであり、もう一つはポピュリストたちと連携することだ。前者を選んだのが立憲民主党であり後者を選んだのが国民民主党だ。
- 立憲民主党と共産党、次期衆院選の連携で合意(読売新聞)
今回のディールは泉代表が共産党側に持ちかけたものと見られる。ところがこのニュースは連合と国民民主党から反発を受けた。国民民主党は「共産党と組むような政党とは会わない」として会議をドタキャンした。ポピュリストと組んでしまった以上「わかりやすいメッセージ」を優先するのは当たり前である。
そもそも労働組合を背景にした政党が行き詰まったのはどうしてか。
労働組合はもともと共産党系、旧社会党系、旧民社党系などに細かく分かれている。社会・民社系は合同したがおそらく内部にはまだ党派対立があるのではないだろうか。今回の連携を許容する動きもあるのだが「連携と言っても政策協定を結んだり集会に出ることを言っているだけで政権を目指す動きではない」と言う内容になっている。これに対して国民民主党は「ダメなものはダメだ」と言うべきだと指摘する。ある程度数を増やさなければ先がないことはわかっているが仲良くもしたくない。
- 国民民主・玉木雄一郎代表、立民・泉健太代表と面会拒否(日経新聞)
- 連合・芳野友子会長「共産党と連携する候補者推薦せず」(日経新聞)
- 連合幹部、立・共「連携」問題視せず 国民幹事長「やはり立憲共産党」(時事通信)
仮に日本の企業が国内で十分に収益を上げることができていれば企業は国内での儲けを確保するために労働者と協力をしなければならなくなる。労働組合が交渉して賃上げを実現させることも可能だろう。現地生産が増えた結果として日本企業が日本から流出している。単に海外での収益を吸い上げるだけになっているため企業は日本の労働者に依存しなくてもいい。こうなると労働組合は交渉力を失う。その結果として国に依存しなければならなくなる。そういう図式だ。極めてわかりやすい。
上昇が望めなくなった人たちは「上」を見なくなる。すると残るのが「あの人たちよりはマシなのだ」という感情である。だから、現在の日本共産党には被差別集団としてのニーズがある。みんなからうっすらと差別されているがそれなりの組織を維持しているため差別に負けて消えて無くなるということがない。そもそも「革命は市民には理解されない」という信仰告白が集団の結束に役立つ。そのためいじめの対象になりやすいのである。
おそらく泉代表はこうした構造には全く気がついていない。場当たり的な行動が目立つその場限りの人なので「国民民主党の玉木雄一郎代表は単に忙しかったのだろう」と否定した。それでも騒ぎはおさまらなかったので「あれは単なる挨拶だった」と発言を修正し、共産党はそれに反発している。
だが、泉代表を批判しても仕方がない。他に状況を打開できるような有望なリーダーがいないからだ。
このように共産党差別は政策ではなく身分制度として理解すると構造の把握が容易い。
「なぜ共産党とは組めないのか」「組むべきでないのか」と問われた時、多くの人は「共産党のような人たちとは組めないのは当たり前である」と反応するだろう。封建制度の中にいる人たちにとって当たり前のことは当たり前でありそれ以上でもそれ以下でもない。身分制度の中にいる人は身分について考えない。
こうした「当たり前」の例を挙げるのは特に難しくない。例えば総理大臣になるためには衆議院議員でなければならない。衆議院の方が格が上で衆議院議員が総理大臣になるのが普通だからである。また、総理大臣を出した家で跡を継いだ人が自民党の要職につくのも当たり前だ。
共産党の教義はもともと「虐げられている人たちの解放」だ。トップにいる人たちは東大出身のインテリなのかもしれない。だが彼らが目指しているのは社会改革なのだから封建主義的な理解が広がってしまうとそれ以上に支持は広がらないどころか単に被差別対象になる少数者を抱え込むだけだろう。
よく日本共産党が政権に入ると中国に支配されるというようなことを言う人がいる。だがこれは間違いだ。「社会的弱者」の味方を標榜しているのでアメリカ・ロシア・中国が同列で「覇権主義的な存在」になっている。もともと反権力志向の政党なのでそもそも政権構想に入るのが難しい。
権力打倒という伝統があるため、志位指導体制にも抵抗する動きがあったようだ。だが、悲しいことに運動体として高齢化してしまっているため「高齢者同士のいがみあい」のようにしか見えなかった。左派の集団が細かく分裂しがちなのは「統治」に対してネガティブな感情が育っているからなのかもしれない。
これまでの論理構成をおさらいする。
日本の国力が衰退し、労働運動に期待が持てなくなったことで労働組合が動揺している。しかし日本の左派はどこも過去のしがらみから自由になりきれていない。さらに外側では封建的な政治理解も進んでいる。特に共産党には差別されやすい教義がある。上昇が望めない生産年齢の労働者たちは被差別対象を求めるのだから、共産党には「いじめの対象」としてのニーズがあり、そのニーズが大きく育っている。
起点は国力の衰退だった。海外の物価上昇が日本にも及んでいるため今後日本は後追い型のインフレを経験するだろう。次世代型の日本を牽引する産業は現れていない。当然「賃金は後追いを続けるほかない」ということになる。GDPもドイツに抜かれて世界第4位になる。
かつて物価が伸び悩むことを拡大解釈して「デフレ」と言っていた。公明党はこの解釈を改め「インフレ化でも賃金上昇が追いつかない」ことを「悪い景気だ」と言い換えている。そして「景気が良くなるまで減税対策を続けるべきだ」と主張している。
この理解は「景気というものは良くなったり悪くなったりする」という景気循環説に基づいている。おそらくこれは誤謬でありたんなる信仰だろう。庶民実感に合わせて一時減税の景気状況を入れてしまうとそれを元に戻すことはできなくなるはずだ。そもそも日本には大規模な国民の景気実感調査はないため肌感覚以上の政治判断もできない。
公明党も「政府与党の政策は全てうまくいっておりそのうち明るい光が見えてくるはずだ」という信仰なしには支援者たちをまとめ上げてゆくことができないでいるということなのかもしれない。