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組体操にみる日本型マネジメントが失敗するとき

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もともと組体操は戦前から存在したようだ。日体大では今でも人間ピラミッドが作られている。しかし、日体大のピラミッドは4段程度なのだそうだ。名前も「組立て体操」というそうである。どういう経緯だかは分からないが、大学生でも4段しかできないものが中学生でも10段くらいできるという話にすり替わったのである。
面白いなと思った点はいくつもある。
第一にけが人(中には障害が残った人もいるらしい)が出ても「これは危ない」と言い出す人がでなかった。専門家が2年くらい騒いでやっと「ああ、これはヤバいのかも」という話になった。こうした人たちは「例外だ」ということにされてしまう。例外を作って「組体操は安全」という安全神話を作ってしまうのだ。例外になった人たちは疎外される。リスクは誰にでもあるのに誰も自分のこととは捉えない。
そもそも、なぜピラミッドは巨大化したのだろう。日本人のイノベーション競争はある一点に向かいやすい。例えばTVの場合にはどんどん「画質をきれいにしよう」という方向に進んだ。そのうちオーバースペックになるのだが、誰も止めない。ピラミッドの場合「とにかく高くしよう」という方向に向かったのだろう。いったん競争心に火がつくと誰も止められないのだ。
日体大の場合、評価の基準がクロウト好みの方向に流れているのではないかと思う。何が基準になっているのかは分からないが、芸術性とかいろいろとあるのかもしれない。一方で、小中学校レベルの先生にはそうした高度なことは分からない。そこで競争が単純化してしまったのだろう。つまり第三の点はマネジメント層が本質的にシロウトだということになる。また、先生が組体操をやるわけではない。自分たちでやれば危険が身にしみて分かったかもしれない。つまり先生は当事者でもなければ専門家でもない。しかし、なぜか自分たちのマネジメント能力に自信があり「自分たちは安全を確保できる」という仮想万能感に囚われている。
ピラミッド競争は競争は先生のために行われている。結局これは先生と先生、学校と学校の間の競争なのだ。生徒はその道具になっているに過ぎない。先生たちは生徒がどのような実力を持っているかを理解していない。もし理解していれば大学生でもやらないような10段組になど挑戦させるはずはない。だが、現場では「生徒を利用して自分の欲求を満たしている」という意識はないはずだ。「教育」というマジックワードがあるからだろう。人は指導的な立場に立つと我を忘れてしまうのだろうが、生徒は先生の欲望を満たす道具ではない。
本質的に出来そうもないことをやらせているので、指導はできない。そこで出てくるのが「絆」と「精神性」だ。がんばればできるというのが、それに必要な資源は与えない。すると無理が生じるので同調圧力をかけて潰すのである。
その結果、組織には無理がかかる。人間ピラミッドの場合には一番下にいる人たちだ。彼らが支えきれなくなったところで、構造は内部から崩壊する。
これを企業に当てはめてみると、面白い結論になる。シロウトの経営者が従業員の実力を無視して、今までの方向を変えずに、精神論を振りかざしどんどん外側から要求をエスカレートさせる。やがて従業員は組織の重みに絶えかねて内部から崩壊する。崩壊するのは生活すらおぼつかない非正規雇用かもしれないし、非正規雇用とのインターフェイスになる名ばかり管理職かもしれない。
第二次世界大戦の例でも同じようなことが起こった。当初の軍人は明治維新を戦った人たちだったのだが、その子孫の代になると外側から要求ばかりを繰り返すシロウト同然の集まりになった。判断を誤り精神論で戦線を維持したが、補給を考えなかったために多くが餓死し、一部は略奪に走った。最終的には戦線を支えきれなくなり内部から崩壊した。
人々が組体操に注目したのは、組体操が日本人が持っている元型のようなものを感じ取ったからだろう。その末路は悲惨だ。組体操そのものが悪いものではなかったはずなのだが、マネジメントが悪かったばかりに全否定されてしまうのだ。