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民主・維新の合流に際して「資本主義の終わり」について考える

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民主党と維新の党が合併を決めたらしい。党名は募集するという。これは失敗するなと思った。政党はあるイデオロギーを持った人たちの集まりだ。党名がないということはイデオロギーがないということだ。この両党は選挙互助組織だと見透かされているので、このままでは支持を拡大する事はないだろう。
もともと民主党は自民党の派閥抗争に破れた人たちが社会党と合流してできた政党だ。岡田克也代表を「左翼」だと思っている人も多そうだが、最初の選挙は自民党から出ている。
民主党結党の目的はアメリカのような二大政党制を目指すというものだった。一方は「共和党」なのだが、日本は共和制国家ではないので民主党しか使えなかったのだろう。もし、まじめに政党名を決めるとしたら「the alternatives」とでもするのがよかったのだろう。
だが、もはや自民党と民主党の二大政党制というアイディアに意味はないのではないだろうか。目の前にはもっと高次元の問題が起こっているようだ。それは「現代は資本主義の終わりなのではないか」という問題意識である。
国債の利子率が下がっている。少なくとも今までの常識では国債の利子率は概ね国家の成長の度合いを意味している。資本主義経済において成長とは、資本を投入してより多い資本を得るということだ。もし資本がそれ以上増殖しないのなら、そもそも資本は必要ないし、銀行も要らないのだということになる。
ある資本主義の類型によると、日本では金融システムと福祉システムが発展しなかった代わりに大企業がその役割を担っていたのだそうだ。確かに戦前には財閥があり、銀行は財閥の金融部門のような位置づけだった。だから「銀行が貸し手を失っている」というのは日本の金融システムの行き詰まりを意味しないのだが、企業が投資先を失っているというのは日本型金融システムの行き詰まりを意味していると言える。
これは日本だけの特殊な状況だと思われていたのだが、どうやらヨーロッパでも同じようなことが起こっているらしい。さらに、アメリカの状態も怪しくなっている。イエレン議長はマイナス金利の可能性について否定しなかった。先進国が軒並み低成長に陥っている。どうやら産業構造の問題ではなさそうだ。
だから、経済学者の中には「資本主義は終った」と主張する人もいる。資本主義は中央が周縁から富を吸い上げるシステムなのだが、周縁がなくなりつつあるというのだ。つまり世界は開発し尽くされてしまい、これ以上の資本は必要がなくなったということだ。歴史上、利子率が2%以下に下がったという事態はほとんど起こっていないらしく、史上初の特異点だの主張である。
一方で、お金が増殖しすぎて(あるいはリスクを分散しようとして)公害のような状況を引き起こしているだけなのではないかとも思える。この場合、資本主義が終ったわけではなく、単に未知の不調に侵されているだけだということになる。
日本は戦後急速に資本蓄積を行った。この蓄積された資本が安全な資産と目されていた土地への投資に流れてバブルを生んだ。バブルが崩壊して金融機関は信用を失ったのだが、これを国が保護した。しかし民間の金融への信頼は失われたままで、企業は銀行からの資金調達をやめて内部留保を増やす事になった。金融機関は貸し手を失い、唯一残ったの投資先が国債だった。
こんなことは起こらないと思っていたのだが、ヨーロッパでも同じような問題が起きた。ギリシャの国債が安全資産と見なされたのが、実はバブルだったのだ。アメリカでは信用力が低い人たちへの住宅ローン貸し付けがバブルを起した。リスクを細切れにして数式にぶち込めば安全になると考えたのだが、これは数学者の狂った考えに過ぎなかったのだ。共通するのは、資本の過剰な蓄積で金融システムが狂い、本来の信用システムとして機能しなくなるという図式だ。
だが、いかんせん誰にも状況が分からないらしい。状況が複雑に絡み合っているからだ。誰にも状況が分からないのだから問題意識の持ち方も異なってくるだろう。
もし「資本主義が終っている」という現状認識を持つならば、代替政党は無成長経済システムをいかに作り上げるかということを主眼に置いた政治体制を構築すべきだ。あるいは金融システムを世界から切り離しコントロール可能な体制を目指すべきかもしれない。無成長型の人は少なからず江戸時代を指向するようになる。金融も通商も外国から遮断されていたので、何のイノベーションも起こらなかったが、大規模な争乱もなかった時代である。この考えに立つと「資本主義は西洋が持ち込んだ異教であり日本人には馴染まなかったのだ」ということになる。自民党意外の保守政党は潜在的にはこの考えを持っているのではないだろうか。つまり「経済鎖国政策」だ。
「資本主義は終っていないが、現在の金融システムには問題がある」と考えるならば、国際協調を主眼に置いた政策が考えられる。問題を明確にした上で、解決策を提示すべきだろう。金融システムの正常化のために何ができるかということだ。いったん国家がプライベートセクターに与えた「過剰な信用」(つまりお金のことだが)をどのように回収すべきかということが問題になる。この選択肢が示唆するところは大変強烈だ。つまり、私企業からお金を奪えと言っているのと同じことだからだ。一国だけで行えば資金フライトが起こることは目に見えている。左派にはピケティの資本への累進課税を支持する人は多い。また、サンダース大統領候補も銀行家から課税して教育費をただにしろと言い始めている。あのアメリカで社会主義がおおっぴらに語られているのである。
さらに「資本主義は終っておらず、現在の金融システムにも問題がない」と考えるならば、再び経済成長を目指せる体制を整えるべきだろう。地方や個人に権限委譲して古い資本家から経営資源を切り離すことが政策の中心になるはずだ。「地方分権」や「エンパワーメント」が主眼になるはずである。これはもともと維新の党のアイディアの元になった大前研一氏などの主張に近い。国は人権を制限すべきではないし、思想信条にも立ち入るべきではない。経済にはできるだけ立ち入らず「小さな政府」を目指すべきである。地方分権はアメリカでは当たり前の考え方なのだが、日本では政治の果実を地方にも分配せよという主張にすり替わることが多い。大前研一氏と橋下徹氏はけんか別れしてしまったわけだが「現実主義者」の橋下氏には、アメリカの小さい政府論が絵空事に見えたのかもしれないし、邪魔になったのかもしれない。現在のおおさか維新がどれくらい小さな政府を指向しているのかはよく分からない。
最後の選択肢は「資本主義は終っておらず、現在の状況にも問題がなく、中央集権型の経済システムにも問題がない」と考える選択肢だ。これは従来の自民党が取っているポジションなので、新しい政党がここに取って代わることはできないだろう。自民党の意見によれば「アベノミクスは前進している」のだからだ。
よく「国家観」という用語を耳にする。政党を作るならまず「国家観」を持つべきだ。国家とは経済の主体であって、軍事や防衛といった問題はそれに付随する問題に過ぎない。国家の目的は住民の幸福の最大化であり、その存続そのものを自己目的とするのは倒錯しているとしか言いようがない。
しかし「議員になりたいが、何をやりたいか分からないので、何でも好きなことを言ってください」というのも正しい姿勢とは思えない。そもそも国民の間にこれといった現状認識がないのだから、答も得られないだろう。
問題の根幹は「そもそも何が起こっているのか分からない」という点にある。誰にも解決策がないという意味ではリスクではなくカタストロフなのだが、あまりパニックに陥っているという意識もないのではないかと思う。
いずれにせよ、民主と維新が合併する政党名が決められないというのは、モデルにする国がなくなったとういうことを意味しているように思える。バブル崩壊くらいから日本は資本主義の最先端を走っていたのだろう。日本は中国の後追いで文字を覚え、西洋諸国の後追いで資本主義を覚えた。後追いする国がないというのは歴史上始めての経験なのだ。


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