国会を見ていて頭を抱えた。安倍首相とお友達(稲田議員など)が嬉々として憲法改正について語り合うのを見るのには慣れたのだが、それとは別の、もっと厄介な危険が迫りつつあるようだ。それにしても目の前で政治が谷を転がり落ちるように劣化して行くのを見ると、怒りを通り越してなんだか笑ってしまう。もう、行く所まで行けばいいんじゃないだろうか、とすら思う。
それが「おおさか維新」のポピュリズムだ。おおさか維新は夏の参議院選挙前に憲法改正案を提示するという。その内容は「地方分権」と「教育の無償化」である。地方分権はもともと大前研一氏らが提唱していた道州制に源がある。アイディア自体は賛成しても良いかなと思うが、東京の利権を大阪に配分しろという動機なら止めた方がいいだろう。
問題は「教育の無償化」だ。確かに、少子化の一因が取り除かれ、学生ローンなしで進学ができない子供はいなくなるだろう。大学まで無償化できれば、それはよいことには違いない。表立って反対もしづらい。だが、原資はどうするのだ?と思う。おおさか維新によると「行政改革をして公務員の人件費を削れば」なんとかなるのだそうだ。「あれ、どこかで聞いた事があるぞ」とは思うのだが、国民に持ち出しがないのならと賛同する人も増えるだろう。
現在大学教育は危機に瀕していると言われている。研究費の国家助成が減らされつつあるのだ。そこに無料で学生を取り込むとどうなるのだろう。憲法さえ改正すれば一連の教育問題はすべて解決するのだろうか。
「不景気なのにいい思いをしているけしからん公務員からぶんどれば、子供の教育費が安くなる」というのは、簡単で分かりやすいメッセージだ。一方「立憲主義を守れ」というのは分かりにくい。「立憲主義を守ったらなにをくれるのだろうか」と「善良な市民」はそう思うだろう。それにけ憲法などというと、なんとなく「インテリ」な感じがする。学者や学生は、知性というものがどれだけ反発されているのかということをよく分かっていないのではないかと思う。人は「分からないこと」を嫌うのだ。
分かりやすいメッセージを発信しつつ、インテリや公務員を叩くというのは橋下徹さんの常套手段だ。これで溜飲を下げている「善良な市民」は多いだろう。かつて民主党を支持していた人たちの一部はおおさか維新に流れている。民主党は政権を取った途端にこういう人たちを切り捨ててしまったが、たぶんおおさか維新は「善良な市民の戦い」を続けるのではないかと思う。
このような政治をポピュリズムという。ポピュリズムは、大衆が組織化されないままで「上からの社会主義化」が進んだ状態を指すということである。豊富な政府資金を背景にした「バラマキ」が特徴だが、その末路は悲惨だ。後で高いインフレ率に悩む国が多いのだ。ポピュリズムに熱狂した国民は、あとでなけなしの資産を失ってしまう。アルゼンチンや南米の国々が代表例だが、ギリシャもポピュリズム国として有名である。ギリシャは通貨の関係からインフレさえ起こらず、銀行が封鎖されてしまった。
ポピュリズムは劣化した政治家の単独犯罪ではない。権力を握りたい政治家と「楽して簡単に豊かになりたい」国民が結びついて起こる。ポピュリズム政治の過程で政治は難しい政策立案の能力を失う。そして、国民も成長を通じて富を蓄積する能力を失うのだ。
ポピュリズム政党は「負担なしで楽ができますよ」と言うだろう。その為に「権力を私達に預けてください」というのだ。「善良な国民」は熱狂して自ら従う。しばらくのうちは何も考えなくても富が降ってくるからだ。いったんポピュリズムに火がついたら、それを表立って攻撃するのはむずかしくなるだろうし、学者が何か言っても「実務経験がない学者が何を言っても無駄」という攻撃が繰り広げられるに違いない。
自民党とおおさか維新の組み合わせはうまくできている。おおさか維新が官僚に対して課題な要求を突きつける。国民は熱狂するが、官僚は抵抗を始めるだろう。そこで自民党がでてきて「俺たちが守ってやるよ」と言って妥協を迫るわけだ。プレッシャーに晒された官僚は妥協してしまうかもしれない。自民党一党ではできなかったことができてしまうのだ。ある意味、民主党の失敗に学んでいるわけである。
どうしてこんなことになったのかな、と思うのだが、結局のところ、70年前に空から降ってきた民主主義をそのまま受け入れてしまったことが原因なのかもしれない。だが、アメリカでもポピュリズムが台頭しつつある。共通点は格差だ。格差が拡大すると、権力や大企業への反発が強まりそうなものだが、実際には権威にすがるようになるのだと思うと、なんだか切ない気持ちになる。