愛国心と平和は共存可能だ。愛国心とは国を愛する心だ。一般化すると所属する集団を愛するという意味になるだおる。自身の集団を愛する事と、他者を排除しない(平和共存)ということは容易に両立可能である。
かつて、日本は様々な民族(少なくとも北方由来のツングース系と南方系がいたと考えられる)が折り合って一つの言語を話すようになった国だ。その後、半島から流れてきた政治難民も受け入れたが、言語的に分断されることはなかった。日本神話には渡来系の人たちとネイティブな人たちが譲り合って国が作られた経緯が綴られている。
これは希有で誇るべきことだろう。例えば、イギリスも同じ島国だが、今でも言語的に異なる人たちが住んでおり、少なからず植民地にされた恨みを持って暮らしている。今、日本人が一つの言語を話す事は当たり前のことではない。懐の深い日本の歴史を誇らしく思う。
だが、現代の「愛国心」にはネガティブな含みがある。第二次世界大戦中に愛国心が人殺しの道具に使われたからだろう。おおらかだったはずの日本の神道は、いつのまにか一神教的な新興宗教に変質してしまい、危機感を背景に人殺しの論理に使われた。結果として、愛国心にも排他的な含みが残った。
ここで問題になるのは「おおらかな神道」と「一神教的神道」のどちらが「伝統的な日本のあり方」だったかということだ。前者を取れば自国を愛する事と他者を尊重すること(すなわち平和の希求)は両立するが、後者を取れば「俺の神を信じるか、他の神を信じるか」ということになる。このあり方だと、愛国心と平和を両立するのは難しいかもしれない。苛烈な砂漠環境で作られた一神教的世界は他の神の存在を許さない。だから愛国心と平和は両立しないかもしれない。
保守や右派というのは極めて曖昧な定義付けだ。近年の保守の中には「聖戦」を戦っていると思えるような人が多いように感じられる。その世界認識は一神教的であり、他者を排除しない限りは生き残れないと考えているのではないかとさえ思える。こうした「保守」に追随する人たちも、愛国心を希求しているというよりは、単に外国人を苛めたいのだと考えている人が多いように思える。これを愛国心と呼ぶかは議論の別れるところだろう。
「保守思想とは他者の排除の理論なのだ」とか「外国人とは決して分かり合えないのだ」言われればそれ以上の反論はない。それが現代の保守思想なのだと受け入れるしかないだろう。もしそうでないのだとしたら誰かが本来のおおらかな日本のあり方というものを示す必要があるのではないかと思う。
なぜおおらかだったはずの日本人の心の有り様が変質してしまったのかというのは重要な質問だろう。そのメカニズムが分かれば、今の人たちが感じている「国家や民族の危機」という認識が正しいものなのかという問いに答えが出るのではないかと思う。70年前と同じ間違いが再び起こるのを防ぐのに役立つだろう。
だが、これは意外と難問でなかなか答えが出そうにない。