安倍派の新しい体制が決まった。塩谷(しおのや)氏を座長にした集団移動体制に移行する。執行部入りするメンバーはこれから選出し塩谷氏の名称を「代表」にするか「座長」にするかなどはこれから決める。産経新聞は「これは乱闘の始まりだ」と指摘している。例えていうと鎌倉殿の13人の世界である。すでに派閥無所属の総理大臣も出ているのだから今後自民党の派閥の内容も大きく様変わりしてゆくのかもしれない。
安倍派の新しい体制が決まった。森喜朗氏が指名した5人の後継者候補と塩谷立氏の間で話し合いがまとまり、下村氏を排除した形で新しい集団移動体制を作る。新しい会長が不在になるため「安倍派」という国民に人気があった名前と集団の規模は維持することができる。今回の主眼は1年かけた下村氏外しだったと言って良い。
これで安倍派所属議員は岸田政権内部で引き続き良いポストを得ることが可能になる。塩谷氏を取りまとめ役にして岸田政権と交渉すればいいからだ。しかし会長をおかないということは総理大臣候補を出さないということである。つまり、自分達が政権を取る道はしばらくは諦めたことになる。
例えば石破茂氏の勉強会が派閥になった時の目的は「石破茂氏を総理大臣にする」ということだったのだから派閥のあり方そのものが「ポジションを得るための互助会」に変わったことになる。
ここまでの指摘はどのメディアにも共通だ。だが、産経新聞が面白い指摘をしている。一瞬、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の見過ぎだろうと思ったのだが、確かにこれで色々と説明できる。意外と良い例えなのかもしれない。ただ産経新聞はさすがにNHK大河ドラマのタイトルをそのまま持ってくることに躊躇(ためら)いを覚えたのだろう。「乱闘」と書いている。これでは殴り合いの喧嘩が始まるように思えてしまう。
若手議員は「これは『乱闘』だ。1年かけて下村氏が外れ、次は塩谷氏や5人衆の誰かが脱落するといった争いだ」と話した。空席となっている新会長選びの際に、5人衆らの綱引きになることも考えられる。
安倍晋三氏は血統がよく国民に人気のあったリーダーだ。ここでは武士団をまとめて朝廷とやり合った源頼朝に例えられる。だが、実際の鎌倉幕府は関東の武士団の利権互助会だった。
朝廷と渡り合うためには権威と武力の力が必要だったために源頼朝亡き後「源氏」をいただいて幕府を維持した。しかし、集団指導体制は意見のまとまりがない。このため評定衆の間で足の引っ張り合いがおき一人またひとりと脱落していった。
「鎌倉殿の13人」を参考にするならば5人から次の総理は出ないだろう。おそらく「血統がいい」人が推戴されることになる。やはり創業家から排出されると考えるのが自然である。
清和会はもともと池田勇人内閣で傍流化していた岸信介系の議員を福田赳夫が引き連れて出ていったのが始まりだ。つまり「王子」が二人いる。それが福田達夫氏と岸信千代氏だ。彼らが評定衆に逆らえば首を切られる。だが大人しく「神輿」に乗っていればそのまま会長職を引き継ぐことができるのではないか。
今回改めて清和会の歴史を調べて「なるほど」と感じたことがある。岸信介氏は大蔵官僚ではなく商工官僚だった。マルクス主義に学んだ国家運営を実践していたなどとも言われており戦前は革新官僚などと言われていた。この岸氏の人脈を大蔵官僚だった福田赳夫氏が引き連れて出たのが清和会の始まりである。
吉田茂の吉田学校は大蔵省の「仲良しグループ」だ。清和会は、そこに入れない人たちが自分達の政策を実現しようとして作ったグループだったといえる。ただこの時に「さすがに仲良しグループではだめだろう」と思ったようで、人脈ではなく政策をベースにした集団を作り自由民主党を近代化させようとしたそうだ。中央公論が記事を出している。
岸の目指した党近代化の夢を受け継いだのは福田赳夫であった。池田政権発足後、福田は、池田政権が金権腐敗や派閥政治の問題に真剣に取り組まないことへの不満を募らせていた。こうしたなか、1962年に入ると、福田は派閥横断的に同志を募って、党近代化を目指す党風刷新運動に乗り出した。
党風刷新運動は、①派閥本位の総裁選を廃止、②小選挙区制度の導入、③党による政治資金の組織的運営、を目的に掲げた。その内容は1990年代に実現する政治改革の内容を先取りするものであった。
井上正也 清和会の誕生――脱派閥を掲げた派閥の歴史(中央公論)
岸信介の理想は「アメリカの対等なパートナーとして渡り合える近代的な国家運営」と「マルクス流の計画経済」の組み合わせだった。自由放任主義の吉田系やその流れを受け継いだ田中派とは全く経済運営の性質が異なる。
だが、政策ベースの集団という理念は残ったが派閥そのものから脱却することはできなかった。そして今回の一件で政策ベースではない地位の互助会に先祖返りしてしまったことになる。
この中央公論の記事からもう一つわかることがある。清和会がもともと「経済系」の派閥であるという点だ。昔の商工省なのだから現在の経済産業省がそれにあたる。
もう一度「鎌倉殿の13人」の例えに戻る。
鎌倉武士団が「幕府」を必要としたのは官位を必要としたからである。現在で言えば「大臣、副大臣、政務官」などのポストがそれにあたる。だが実際には彼らは自分達の所領から「上がり」を得て生活していた。つまりこれまで通りに経済産業省の力が強く日本の産業が力強ければ「官位をもらうために秩序を支える」という構図はそれなりに成立しそうである。
日本の経済力はかなり落ちていて円安傾向が続いても稼ぐ力が失われたなどと言われている。この体制はおそらく新しい構造が作れないが故に「古い産業構造を維持する方向」に作用するのだろうなと思える。そして日本の産業が分配を伴う利権構造を維持できなくなった時この体制は終わる。今回の集団指導体制が「終わりの始まり」であるかはまだわからないものの、その兆しが現れた可能性は高い。
いずれにせよ、福田赳夫氏が提唱した「自民党を政策ベースの集団に作り替える」という転換は一応成功し、政党ベースで選挙を管理するという小選挙区制も実現している。清和会は一旦歴史的な役割を終えたといえるのかもしれない。表向きのまとまりを保ったままで緩やかに解体してゆく可能性が高いのではないか。既に無派閥で総理大臣になった人もいる。
- 無派閥でなぜ、総理になれたのか(NHK)
自民党の派閥は緩やかにではあるが確実に変質しつつあるのだ。