日本のこころを大切にする党の中山党首が質問に立った。冒頭で、私達は「自由主義でも社会主義でもない」政党を目指す(他にもいろいろな「主義」をおっしゃっていたが忘れた)と言っていた。これを聞いて日本の保守は滅んでしまったんだなと思った。
「私」が「私以外の人ではない」のは当たり前だ。だから「〜でない」といっても私を定義したことにはならない。このような定義をせざるを得なかったのは「そもそも私がどういう人なのか」を見失ってしまったかrふぁだろう。政党とは同じ考えを持った人たちが集るまとまりなのだが、何を根拠にまとまっているかを他人に説明できないのだ。
党名の英訳にも表現されている。英訳をThe Party for Japanese Kokoroというのだ。「こころ」を定義することができなかったようだ。多分「日本独自のもので翻訳できない」と主張するのだろうが、多分分かっていないだけだろう。
それでは日本人の心とは何なのだろうか。中山党首は議員総会で「穏やかさや誠実さ、良心など日本人が誰でも持っている精神が欠けつつある」と説明している。いわば「美徳」である。だが「美徳」はどの民族も持っている。試しに、アメリカ人や中国人に「美徳を持っているのは日本人だけだ」と主張してみればいい。きっと笑われるだろう。
さらに中山党首は「日本人から美徳が失われつつある」と言っている。では、美徳を持っていない日本人は日本人ではないのだろうか。美徳を日本人のこころだと主張しつつ、それが失われていると認めてしまっている。結局「私たちはいい人」と言っているに過ぎない。保守ってそういうことだったのだろうか。
「保守」は日本から消滅してしまった。しかし、それも仕方がないことなのかもしれない。
日本の保守は日本が戦争に負けたことを認められなかったが、アメリカの影響下から抜け出すことも考えられなくなってしまった。現状が居心地よかったのだ。日本は中華帝国から独立してアジアでいち早く近代化した「野生の馬」だったのかもしれないが、アメリカに飼いならされてしまったのだ。
こうしたアンビバレントな状態が作り出したのが「アメリカの軍事力の元で、いつかは自主憲法を」という倒錯した主張だった。この倒錯が、国民主権からも天皇主権からも踏み出した「自分たちだけが正当な支配者なのだ」という狂った感覚を生み出した。結局「国民も大目に見てくれるだろうし、天皇も黙認してくれるだろう」と甘えているのだ。
そもそも日本の「保守」を自任する人たちは、臣下に持ち上げられ、でたらめな作戦に振り回された挙げ句に、自分と家の存続を賭けて責任を取らされかねなかった天皇のことをどのくらい理解しているのだろうか。理解しているのであれば、その子孫がことあるごとに「戦争は間違っている」というのをどのような気持ちで聞いているのか。
保守を自任する日本人は、その独自性の源がどこにあるのか、そもそも存在する価値があるものなのかを真剣に考えた方がいいと思う。
例えば、あなたの敵(中国人が好みなら、中国人を当ててみればいいし、蔑視して「シナ人」と言っても良い)が大挙して押し寄せてきたとき、その人たちに対して「私達を攻撃してはならない、我々は独自の民族で」などと言えるだろうか。その意味では「主体思想」のほうがまだマシだ。確かにめちゃくちゃな理論なのかもしれないが、中華文明に飲み込まれまいとする周辺民族の必死さがある。少なくとも「私達はいい人だから侵略してはならない」などということは言わないだろう。
また、グローバル経済が伸長するなかで「これからは日本語を捨てて英語で生きて行こう」という同胞を止められるだけの説得力があるだろうか。「長い歴史のある、いい人たち」だからという理由で仲間を引き止めることができるのか。
「私達は良い人です」というだけでは、民族の独立など守れないと思うのだが、本人たちはどの程度真剣に考えているのだろうか。