ざっくり解説 時々深掘り

SMAPと五社協定

SMAPが番組に出てきて「謝罪」した。TVでは「解散しないで良かった」という「街の声」が流されたが、ネット上には批判があふれていた。前近代的な芸能事務所の有り様が批判の対象になっており、会社を辞められないサラリーマンの境遇と重ね合わせるものもあった。フジテレビは視聴者の意見を募集したが「SMAPがかわいそうだ」とか「早く逃げろ」というツイートが集ってしまい放送では使えず、自前で一般ファンを装った情報操作を行った。しかし、ネットは即座に偽装を見抜き、非難の声が上がる騒ぎも起きた。
中には「SMAPが置かれている芸能界のあり方を議論により近代化するチャンスなのではないか」と書いている人もいた。だが、残念ながら「議論」であり方が改善することはないのではないかと思う。
とはいえ、芸能界のあり方も変わらざるを得ないだろう。「議論」で状況が変化することはないだろうが、経済的な圧力が状況を変える可能性が大きい。
かつて映画界に五社協定というものがあった。映画会社の専属スターは他社の映画には出る事ができないという規定だ。映画会社を退職してしまうと映画に出る事ができなくなるので、俳優は廃業せざるを得なかったのだ。
映画会社がこうしたカルテルを組む事ができたのは、映画が寡占産業であり、唯一の娯楽だったからだ。ところが、映画界はカルテルを組んだことで近代化が遅れた。その結果として急速な映画離れが起きることになる。ピーク時に1100万人だった動員数は10年で400万人まで落ちこんだ。その後も落ち込み続けて、最終的には200万人弱で安定した。
映画が落ち込んだのは娯楽の主役を白黒テレビに奪われたからだ。しかし、劣勢になっても映画界はスターの囲い込みをやめられなかった。この時にテレビと協業していれば、映画産業の運命も違ったものになったかもしれない。
映画界のスターの囲い込みには直接の因果関係はない。むしろ重要なのはスタッフを囲い込んだ点だろう。囲い込みによってアイディアの交流が起きず、邦画は昔当たった映画のコピーやハリウッド映画の二番煎じから抜け出す事ができなかった。スタッフと同時に顧客の囲い込みも起こっていたのではないかと想像できる。古くからの映画ファンは変化を好まず「これぞ映画」というような古い類型を待望したのではないだろうか。
日本のテレビも寡占業界にあり、アイディアの交流が起きにくくなっている。このため日本のテレビはつまらなくなった。大勢の視聴者に合わせると、どうしても無難なものしか作れなくなってしまうし、既存の視聴者に合わせると保守的な番組しか作れなくなってしまう。
日本のテレビに代わるものとは何だろう。それはネットだと考えられる。光ファイバーが普及するに連れて、オンデマンド型の放送も可能になった。一方方向の放送と違い、双方向なので視聴者のプロフィールが取りやすい。視聴率というおおざっぱな指標に頼らず、受け手一人ひとりにあった広告を配信することも可能だから、より細かい作り込みができる。「万人向けの無難な作品」ではなく「特定層に向けた切れ味のよい作品」が作れるのだ。
既存のテレビ離れは、アメリカではデジタルディスラプションと呼ばれているそうだ。
放送からネットへのシフトは完了していない。故に現時点ではSMAPが放送に残る事は合理的な選択なのかもしれない。ところが報道の界隈ではすでに放送の優位性が崩れはじめている。TVはコンテンツ(SMAPに人格があるとは見なされておらず、商品として認識される)価値の毀損を怖れて、商品価値を維持する為の情報操作を行ったのだが、ネットでは懐疑的な解釈が主流になった。一部ではジャニーズ事務所バッシング(芸能事務所はブラック企業だ)すら起こっている。
一部スポーツ紙報道では「中居君たちは事務所内で干されるのではないか」という観測も出ている。これはむしろチャンスだろう。「干される」ことで、ネットに進出する動機と機会が与えられるからである。
ただ、これがSMAP本人たちにとって「良い事」であるかどうかは分からない。SMAPはもともとアイドルの衰退期にバラエティに進出せざるを得なかったグループなのだが、中年期になってもまだ「開拓者」としての役割を果たさなければならないのだ。少なくとも楽な道でないことは確かだ。


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