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政党が無党派層を取り込めないのはなぜなのか

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半分以上がガン無視!20代の若者が各政党にメールでお問い合わせをしてみたら…という記事を読んだ。政党にメールを送ったが無視されたという記事である。
「比較検討したい」というのは、有権者としては普通の感覚だろう。家を買うのに各住宅メーカーのモデルルームを訪れたり、テレビを買うためにカタログを買うのと同じ感覚だ。
ところが政党は多分いろいろな事情があって、こうした「お問い合わせ」には答えてくれない。
そもそも、日本には政党政治は存在しない。選挙運動は候補者単位で行われる「個人商店」主義だ。有権者のリスト管理をしているのは各候補者なので、政党は窓口にならない。本当にコンタクトしたいなら候補者の事務所に連絡すべきだ。政党単位で動くのは共産党と公明党だけではないだろうか。
民主党は2009年の無党派の台頭で政権を取った政党なので、Twitterなどで個人を相手をしてくれる候補者も多い。一方でコンタクトリストの管理はずさんだ。一度コンタクトすると「支持者」して登録され、その後「はずしてください」といっても聞いてくれない。一方、古くから利益集団を束ねる選挙をしている自民党は個人を相手にしない。「話を聞きたければ、人数をまとめろ」ということになるし、選挙本部も地元有力者の寄り合い所のようになっている。
組織改革をすれば、政党も無党派層を取り込めるのではないかと思うのだが、話はそう簡単ではないかもしれない。
実際に話を聞いてみると、政党は「敵対者」と対話をすることが苦手なのではないかという印象を持つ。コンタクトした人をすべて「支持者だ」として囲い込みたがる一方で、彼らが準備したストーリーに従わない人たちは「敵対者」と見なされてしまうのだ。つまり、対応が極端なのだ。
これは政党が論理ではなくストーリーで語りたがるからである。もともと出発点と善悪が決まっているのだ。
例えば「戦争法案には反対だが、北朝鮮の最近の動向についてはどうかと思うよ」という人がいたとする。ところが共産党や社民党などの政党はこうした人たちを取り込むことができない。歴史的な経緯があり、ストーリーが固定されているからだ。彼らのもともとの動機はアメリカ支配から脱却し、東側に近い政権を作る事だ、彼らが憲法第九条を擁護しているのは「アメリカの戦争は悪い戦争」であり「アメリカの核は悪い核兵器」だからである。だから「北朝鮮は嫌いだ」というようなことを言うと「敵対者」で「活動を妨害している」と見なされてしまう可能性が高い。
いろいろな政党の人たちと話すごとに「日本人が論理的思考を苦手にしている」ということを思い知らされる。どの政党にも自分たちなりのストーリーがあり、それを逸脱すると話ができなくなってしまう。だから。政党は彼らから語りかけることはできるが、ストーリー外のことには答えられないのだ。無党派とはストーリーを持っていない人たちのことだから、政党は無党派を感化することが原理的にできないのである。
このストーリー指向が問題になったのが「戦争法案」対「平和法制」の対立だ。アメリカ追随の自民党にとってはアメリカの戦争に参加することは平和維持のための唯一無二の答えなのだが、アメリカと自民党に反対している政党にとっては、これは最初から戦争法案である。そもそもの出発点が違っているので、お互いの議論が交わることは絶対にあり得ない。
民主党のように「自分たちが押し進める政策」は善で、「自民党が押し進める政策」は悪だと割り切っている政党もある。だから同じ政策でも条件(これを文脈という)によって善悪が違ってくるのだ。これは政策論争というより宗教論争に近い。
このような理由があるので、日本人は事実と仮説を積み重ねたマニフェストを作る事ができなかった。同じ事を書いても、立場によって「良い政策」になったり「悪い政策」になったりするからだ。これは政党だけが悪いという訳ではない。有権者も解釈を欲しがっているだけで、自分で検証しようなどとは思っていないのではないかと思う。
その意味で、日本の政党のマニフェストは、宗教の聖典に近い。コーランと聖書を比べてもあまり意味がない。要はどちらを信じるかと言う問題である。キリスト教とイスラム教は同じ聖典を持っているが、原理主義のイスラム教徒にとってキリスト教は悪でしかない。しかし、同じ聖典を持っているという事実は自分たちの信条を毀損することにはならないのだ。
日本人は「無宗教」だと言われるが、宗教的行事には熱心に参加する。宗教を信じないわけではなく、一つの宗教にこだわることは危険だと考えており、ご利益があるのなら何でも信じるのである。同じように日本人は政治でも「無宗教」を貫いている。つまり、「無党派層」ご利益があるのなら何でも信じるし、ご利益がなければお参りにはゆかないのだ。無党派には無党派なりのコンテクストがあるのだが、政党の利益と一致しないのである。
こうしたコンテクスト依存を脱却しようとしているのが「元気会」だ。議論の過程を開示した上で、議論終結時の賛否の割合で議員の投票行動を変えようとしている。「情報が出そろった上で、理性的に判断してもらおう」という意図なのだろうが、日本の風土では「その時点でのコンテクストで情緒的に決める」ということになりかねない。有権者の好みそうなストーリーも提示してくれないので、支持する人は少ないのではないだろうか。
「事実と仮説を比較検討する」という方法を取ることができれば、日本の政治は大きく前進するかもしれない。問題解決能力は飛躍的に増すだろう。しかし、大元を辿って行くと政党の問題というよりは有権者一人ひとりの問題だということが分かる。


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