安藤百福がインスタントラーメンを発明し工場を作ったのは昭和33年だった。戦後、ラーメン屋に集る人たちを見て思いついたのだそうだ。平たく言えば「おなかが満たされればみな幸福になるのだ」というような理念から始まった研究だったようだ。結局乾燥させて見たもののうまくゆかず、天ぷらを揚げるのを見て、揚げ麺を思いつく。
スーパーに置いてもらったが売り場担当者は当惑する。消費者から「置いてほしい」というような声が多く寄せられ、問屋のトラックが工場に殺到したのだという。新聞広告は34年、テレビは35年にはじまる。つまり、たいした仕掛けをしないし、特定の消費者ターゲットも作らず、とんとん拍子で売れて行くのだ。みんな飢えていたからだとも考えられるし、「アメリカCIAの陰謀だ」という人もいる。当時はアメリカが日本をアメリカの小麦市場にしようとしており、パンが受け入れられていたからだ。逆に、小麦はパンにして食べる他なく、東洋の伝統である麺にして食べさせたいというのが発明のきっかけなのだという人もいる。
素直に考えると、市場に品物がなかったので「とりあえず広告を出せば売れた」のかもしれない。しかし、これまで見たこともない商品がそのまま素直に受け入れられたというのがどうも不思議だ。
当然摸倣品も出たのだが、ここで訴訟に持ち込まずに知財を解放した。結果的にインスタント麺の市場が形成されることになる。
安藤は台湾の出身で、台湾(中華民国)国籍だった。もともとどうやって事業費用をファイナンスしたのかと不思議だったのだが、父親の遺産で戦前に工場を作り事業家として活動していたそうだ。
麺ロードを行くによると、安藤は麺の歴史について調べる旅に出る。安藤は当然小麦が麺のルーツであると考えていたような節がある。もともと麺は中国では餃子などの料理も「麺」に含まれる。麺の歴史は複雑なように思える。切る、伸ばす、押し出すといういろいろな製法がある。機械を使う押し出し式よりも手で作る(伸ばす)方が原始的に見える。そして小麦、米、雑穀などいろいろな素材から作られる。もし小麦と一緒に伝わったのだとすると、中国の西から伝えられたのだと考えられてもいい。小麦は中東の原産だからだ。
ところが、麺の発明はどうやら安藤が考えたようなものではなかったようだ。ネットで出回っている情報はBBCのニュース記事がオリジナルになっている。だいたい4000年前のことだそうだ。黄河流域のLajia(喇家)遺跡で見つかった。材料は粟、つまり雑穀の類いだ。
人間は何を食べてきたか 第3巻 [DVD]には現代にもこのような麺を食べる人たちの記録が出てくる。黄土高原は乾燥が進んでおり、水が少ない。ここでは小麦のような根の浅い植物は育てられない。風が強く土も飛んでしまう。肥料分も少ない。ここでは小麦はお金を出して買うものなのだが、その現金収入が少ない。ということで、日常生活では雑穀(ユウマイと呼ぶそうだ)を押し出し麺にしたものが食べられている。ゆでるとぼそぼそになって切れてしまうので、蒸して食べる。押し出し機はだいたい700年前頃に発明されたとされている。こうした押し出し式の麺製造機は、中国から見て南の米麺文化圏でも使われる。
麺は食べにくい雑穀をどうやって食べるかという必要から発明されたわけだ。これが後に西からやって来た新しい穀物である小麦と出会い、中国各地で小麦麺が食べられるようになる。
一方、小麦の原産地で麺が発明されることはなかった。小麦はパンとして食べるものだ。イースト菌発酵が発見されなかった地域では小麦を単に伸ばして焼いて食べる。パンの歴史の前には「粥にして食べる」という段階があったのだそうだ。粥が発酵したものを焼いたらふわふわしたというのがパンの始まりらしい。食べ物の形態は保守的にしか変化しない。日本の小麦は伸ばして食べるか、うどんやそうめんのように麺にして食べる料理だけだった。日本人はパンを発明しなかったが、発酵技術がないというわけではない。日本には南部にイモの文化圏があるのだが、もともとイモには毒がありこれを発酵して抜いていた。
このように食文化は、材料(小麦、米、雑穀、トウモロコシ、イモ)を中心にした軸がある。これとは別に加工の軸がある。麺にして食べる、発酵してから焼く、蒸す(炊く)、伸ばして食べるという料理法だ。これが折り重なって料理方法が増えて行く。
インスタントラーメンの発明史から分かることは、ある文化が違う文化と出合って新しい食べ方が作られるということだ。安藤は1966年にアメリカに行き、結果的にカップヌードルの開発のヒントを得て戻ってくる。同じように古代の麺も、限られた食材をなんとかおいしく食べたいという必要から作られ、別の食材と出合う事で発展した。一方、ある食べ方で満足しているときには長い間新しい食べ方は発見されないのだということだ。