ゲゲゲの女房が面白い。戦後の話で、紙芝居、貸本、雑誌とメディアが移り変わる中で、クリエータがどういう対応を迫られるかが描かれている。「マンガ」という意味では同じように見えるのだが、貸本から雑誌に移れない描き手がほとんどなのだ。また版元もなぜか貸本と雑誌では異なっている。この中で、金儲けの話ばかりしているという男があらわれる。ネズミ男のモデルになった方なのだそうだ。彼がはじめた商売の中に「広告代理店」というのがある。
広告代理店が書き手やメディアにとってどう扱われていたのかが分かり面白い。いわゆる「賎業」扱いされている。ただ右から左へとつないでいて、中抜きしているだけのように扱われているからだ。劇中にガロをモデルにした雑誌が出てくるのだが、ここでは版元が直接広告営業を行ったりしている。ということで、いきなり、本物の電通がどうやって「賎業」から脱却したのかが気になった。
電通(田原総一郎)
ということで、田原総一郎の電通 (1984年)を読んだ。実際に読んだのは1981年のもの。
電通は、1901年に創業。通信部門と広告代理業を持っていた。通信部門だけでは成り立たず、いわば副業のような扱いだった。しかし実際に稼ぎがあったのは広告代理業の方だ。この、広告代理業は1930年頃までは「抱かせる、飲ませる、掴ませる」というごろつき同然の業態=賎業だった。しかし、普通選挙が始まり「広告技術」が必要となっていた。この1930年頃、どこにも就職できなかった東大生などを採用して経営の近代化を図る。同時に丸善あたりで買って来たアメリカやイギリスの広告手法を勉強させた。通信部門は国に統合され、第二次世界大戦前までには広告専業となった。
第二次世界大戦の混乱期に広告代理店が統合されるときに、電通は政府に働きかけ、電通だけが全国規模で残った。この時に政府は広告価格も統制する。あくまでも業界の自主規制だということになっているそうだ。これが、昭和19年だった。戦後は、近代的な数字のよる経営を取り入れようとしていた満鉄関係者(このことは、経営学的には面白い。満鉄は大陸進出企業であり、国際競争に直面していたからだ。逆に国内の企業はあまりこうした経営の近代化には熱心でなかったのかもしれない。)、公職追放組を雇い、GHQに食い込んだ。また、広告だけで成り立つという(新聞社は懐疑的だったそうだ)民放ラジオを立ち上げるのに一役買った。しかし電通はテレビにはあまり関心を示さなかった。いったんテレビ・ラジオ網ができると、電通が広告計画を管理して、クライアントに配布するというような連絡制度が作られるようになった。また政府にもパイプを持ち、政府のPRも行っている。そのやり方は影の情報省(築地CIA)と揶揄される程だったのだという。
本が出された当時電通の広告シェアは25%だ。(2009年度は電通によると22.1%のシェアを持つそうだ)このような巨大代理店は世界のどこにもない。アメリカの広告代理店はクライアントが一業に一社の体制を取っている。アメリカでは、クライアントの要望にあわせてスタッフチームを雇う。そしてクライアントが別の代理店に乗り換えるとスタッフが全員解雇されることになっている。このためクライアントと代理店の関係が濃密だ。電通はクライアントの意向に関係なく独自に動く体制ができているので、クライアントの要望に制限を受けない。また、電通には社内に熾烈な競争があるようだ。一業一社というしばりがないので、複数の部局が同じ新規顧客を狙って営業合戦を繰り広げることもあるらしい。
「脱広告」つまりクライアント企業のマーケティング戦略に仕える「広告業」から、最初にあるコンセプトを作り、それにあう企業、メディアなどを人脈を通じて仕掛けて行く仕組みを持つようになった。しかし一方でシンクタンクを作らず媒体の枠売りに徹する保守的な態度でその地位を守って来た。こうした古い広告屋が屋台骨を支えており、その収益とブランド力でメディア開発を行っているのが実情のようだ。収入は圧倒的に新聞、雑誌、ラジオ、テレビが大きい。76%を占めている。総合通信社を指向しながら、広告屋として成立してきたのである。
賎業からの脱却
もともとこの電通のことが気になったのは、多くのIT企業が「企業の下請け」「IT土方」から脱却できず、イノベーションの担い手になれなかったのはどうしてだろうと考えたからだ。電通が大きな力を持つようになったのは2つの理由があるように思われる。一つは政治力を持ち、業界統合と価格統制を通じて競争から脱却したこと。もう一つはメディアを押さえることでサプライヤーとして競争力を持ったことだった。ネットのクリエイティブ企業体は電通を通じた仕組みの中でサプライヤーになったわけだから、価格をコントロールすることができない。このために下請けとして編成されることになった。日本で成功するためには、政府に働きかけ、できるだけ「不確実な競争」のないフィールドを作ることが重要なようだ。
しかし一方で既得権益の場を作るだけではだめで、その下には企業内の熾烈な競争が必要だ。これはかつて自民党が「イデオロギーを持たず」「現実の利益だけを追求し」「派閥ごとに競争を繰り返していた」のに似ている。
この本を読むまで、電通がやマーケティングが成功したのは、自らをプロデュースして、企業戦略上「マーケティングは非常に重要ですよ」「これがなければ売上げは立ちませんよ」という意識を浸透させたからだと考えていた。しかし少なくとも田原の分析よるとこうしたプロデュース業は脇役であり収入の主な柱ではないようだ。
マーケティングと電通
戦後、アメリカは広告からマーケティングへとシフトする。現代マーケティングというコンセプトを作ったのはコトラーだったが、企業と製品のポジションを明確にすることが核になっている。電通の広告理論はもともと、聞きかじりした英米の本が元になっているようだ。そして、戦後もそんなに大きく変わることはなかったように思われる。マーケティングを勉強した人であれば誰でも知っているように、AIDMAはアメリカのセールスマンがまとめた広告手法(マーケティング手法ではなく)が元になっている。これにネットサーチを加えたのがAISASだ。このように土台が違っているので、新しい手法を取り入れようとすると不整合を起こす場合があある。
しかし電通手法は浸透しており、企業のマーケターの中にもAIDMAを信奉する人は多い。もともとセールス・プロモーション重視で店頭指向も強い。マーケティングよりもセールス(つまり企業活動の根幹に持ってくるよりも、できたものを末端で工夫してどう売るか)という指向性も高いように思える。
セールス指向で済んでいた理由はいくつかあると思われる。
- イノベーションセンターが欧米にあり、基本的にこれを持ってくることで事が足りていたこと。つまりもともと製品開発のコアが国内になかったこと。
- 情報量が多すぎず、全国メディアに流せばそこそこ認知ができていたこと。
- 消費者が素直に企業のメッセージを聞いていたこと。もしくは商品選択に関する知識があまりなかった(企業やメディアとの間に情報差があった)こと。
基本的にこれが日本でものが売れない理由になっているのではないかと仮説が立てられる。
- 欧米との間に情報差がなくなってしまった(憧れの消失)。憧れは麻薬的な効果があるらしいことは、中国から日本に買い物にくる観光客を見ていると良くわかる。
- 情報量が多くなりすぎてしまった。これは「売れなくなったこと」とも結びついている。いままで整然とオーケストラのような曲調だったのが、不協和音が断続的に鳴り響く情報空間ができてしまったのだといえる。これに対応する側は、街中に鳴り響く音楽を遮断できない訳だから、ヘッドホンをして自分の音楽だけを聞くようになるだろう。広告中心のマーケティングではここに音を足して行くわけだ。
- インターネットのような顧客発信型のメディアが出て来たせいで、中央から末端に流す統制された情報の通路が壊されてしまった。
- 売れなくなると、過大な情報を多く流す。また流通経路が複雑になり(中古品も含めて)選択が難しくなる。
- 消費者が総じてプロシューマー化していること。情報を持っている。消費者の多くは職業を持っていて、あるジャンルではメディアよりも情報を持っている。シゴトを持っていない人でも地域情報ではメディアより豊富な情報を持つ。
電通は有為なポジションを利用して(実はこれがマーケティングの肝だったりするのだが)古いやり方を守って来た。皮肉なことに、このことが日本が現代マーケティングに脱却できない理由になっている。また、海外とはやり方が異なるので、海外に進出する時に、日本市場と海外市場の二本立てでマーケティングを組み立てることになる。
現代マーケティングがポジションにこだわるのは情報が過剰になり、その中から自分たちの製品を際立たせなければならないからだろう。送り手がポジショニングを通して自分たちの製品の位置を明確にすることなのは重要だ。しかし一方で受け手側も自分たちのポジション(この場合はどのような仕事を片付けたいか)を明確にする必要がある。大音響型の広告に慣れているとこれがうまく行かない。すると情報が受け取れなくなった消費者は比較可能な唯一の情報「価格」に反応した後、それでもあまり差違が分からないとなると必要以上のものを買わなくなってしまうだろう。
現在の広告環境は、街の大音量に耐えかねた消費者が自前でヘッドホンを買って好きな音楽だけを聞いている環境に似ている。こうした環境では消費者は新しい発見ができないかわりに心地いい環境を手に入れることができる。ここでヘッドホンを外して「わー」と大声で語りかけるのはあまり得策ではない。ヘッドホンから流れる音楽に企業の声を混ぜて行こうというのが「ソーシャルマーケティング」だ。
日本の現代マーケティングからソーシャルに移るためには2段階の変化が必要だということなる。なかなか、ここに行き着かないのは戦後の日本の仕組みがとてもうまく機能していたからだろうと思われる。