テレビで『蜩ノ記』を見た。岡田准一の演技(というより所作というのか)が良かった。腰を落とした歩き方が「ああ、昔のひとはああいう歩き方をしていたんだろうなあ」という印象を与える。
この映画は役所広司(の演じる武士)の無私の精神を鑑賞する映画なのだろう。ただ、役所広司がなぜ切腹しなければならないのかなどという面倒な事を考えはじめると楽しめなくなる。そして、無私の精神がなぜこれほどまでにありがたがられるのかということに違和感を抱くと全く楽しめなくなる。
筋がほとんど分からなかったので、ウィキペディアを見ながら鑑賞するはめになった。多分、本を読んだ人が見る映画だから筋を詳しく説明しなかったのではないかと思う。日本は謙譲が美徳ということになっているので、主人公たちにべらべらと背景を説明させられなかったのかもしれない。本来なら岡田准一がワトソンのように語り手の役割を果たすべきなのだろうが、雰囲気はぶちこわしになっただろう。
ウィキペディア情報によると、あらましは次の通りだ。役所広司の指導で井草が地域の名産になった。しかし、後任者と藩の重役たちの悪政によって、井草は博多の商人が独占するようになり、農民は二重課税されるようになってしまった。当然、農民は困窮する。さらに郡奉行が「不作で米が取れなくなったら、博多の商人に田んぼを売れ」と無理難題を吹きかけ、恨みを買って殺されてしまうのだ。
役所広司が死ななければならないのは、この武士の体制と体面を守るためだ。体制を守りつつ歴史の中に「真実」を記述することにによって体面も守ろうとしたのである。だが、それを両立するためには10年間歴史書を書いてから死ななければならなかった。
確かに、武士の立場に立脚すると、これは美徳ということになるのかもしれない。しかし、生産と成長という観点から見ると見え方は異なる。この体制下では、せっかく振興した産業を潰しかねず、生産者も疲弊させてしまう。さらに、生産性を向上させようとした指導者は死ななければならなかった。残ったのは歴史書だけである。
「民が豊かになる」ことを正当化するためには、生産性が上がること(つまり、成長だ)が正義にならなければならない。生産性が上がることが正義になるためには、移動と競争があることが前提になる。生産性の低い土地から高い土地に移動ができれば、競争力の低い土地からは人がいなくなってしまい、統治失敗だ。だが、当然のことながら江戸時代の農民は移動ができない。生産性を上げても武士と商人に搾取されてしまうのだから、農民の間に生産性を上げるインセンティブは働かない。そもそも田畑の所有権すら失いかねない状況なのだ。武士にも生産性を上げるインセンティブはない。自分たちの社会さえ維持できれば、生産者がどうなっても構わないからである。
そもそも武士は生産者が何をやっているのかさっぱり分かっていない。ただ、利益が素通りするのは困ると考えているだけである。だから、儲けの総額よりも、自分のところにいくら入るかが重要になってしまうのだ。
生産性という点から見ると、武士は「寄宿階層」だ。生産にも寄与していないし、流通を通じて生産された財の価値を高める事もない。単に農民の労働力を搾取しているだけである。彼らの関心事は家の体面だが、これも実利というよりは、血筋の善し悪しと権力争いに過ぎない。
故にこのストーリーをまとめると次のようになる。生産に寄与しない寄宿階層の中間管理職が社内抗争に巻き込まれて社史に真実を残すのと引き換えに自殺に追い込まれてしまう話である。
この話を突き詰めて行くと、武士とは何なのかという話になる。自ら食べるものを生産できない武士が「自分の欲求」を見たそうと思えば相手から搾取するしかないが、生産者である庶民階層から見ると矛盾が生じる。自分たちが「搾取されるだけの階層だ」ということが明らかになってしまうからだ。
そこで「武士は理想的には無私の存在であるべきなのだ」という前提を置くことでこの矛盾を解消しなければならなくなる。言葉で「私は無私ですよ」といっても信頼できないので、死んで見せなければならない。すると「ああ、あの人は自分の命を惜しまずに、みんなのために尽くしたのだ」ということになるのだ。
結局のところ役所広司は隠蔽するために死んでいったことになる。こういう話をありがたがる人が多いのは、日本人の多くが搾取されることを受け入れており、無私というほとんどあり得ない前提を置かなければ平常心を維持できないからなのではないかと思う。武士の立場に立つと、問題解決能力を失った(あるいは始めからない)組織を存続させるためには、死ななければならなかったということだ。そういう犠牲を払った人も多いのだろう。