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無税国家論

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橋下徹さんがツイッターで国債について呟いている。国債は「借金」だということになっているのだが「資本」でもあるだろうというのだ。「借金」だと返さなければならないが、資本であるならばある程度は持っていても構わない。だから、増税が先送りできるという「理論」に結びつけたいのではないかと思われる。
それを証明するために経済学者の高橋洋一さんに知恵の借りようとしているらしい。そもそも大枠が高橋洋一さんの発案なのかもしれない。もともと「反財務省」よりのポジションを取っており「増税なんか必要ない」というような意味の主張を繰り返しているからだ。もともとリフレ派だったのだが、理論的支柱だったクルーグマンが「アベノミクスの失敗」を事実上認めるような発言をしているので、新しい看板が必要になったのかもしれない。
この話、いろいろと面白い点がある。選挙にはスローガンが必要だが、与党に対抗する野党は現在の政治手法を根柢から覆すものでなければならない。しかし、それだけではダメなようだ。橋本さんは「シニョリッジ」という聞き慣れないワードを持ち出した。なんとなく専門的なので「ああ、そういう理論もあるのかなあ」と思わせる効果がある。経済理論への信仰心を利用しているのだ。
この通貨発行益(シニョリッジ)があるから、それが財源にできるのではないかという主張には「問題」がある。紙幣の通過発行益を享受するのは日本政府ではなく日本銀行である。高橋理論はこの二つを意図的にごっちゃにしている。二つが分離されているのは、ルールを定める政府が発行益を所持すると財政規律が緩むからではないかと思われる。分離することにより通貨に対する信頼が保たれるのだ。通貨の信頼が失われると、ジンバブエのようなインフレが起きる。日本も戦後ハイパーインフレを経験している。確かに政府の借金は帳消しになったが、国民の財産も失われた。究極の平等化政策だという見方もできる。
もっとも、高橋さんが理論化に成功できれば、究極の無税国家が作られる。すべての費用をシニョリッジでまかない、その利益を国民に配分すればいいからだ。橋下さんは「政治家がやる気になれば、教育費をすべて無料化できる」と言っている。極論すれば、通貨発行益があれば人々は税金を納める必要も働く必要がない。そう考えると高橋先生を応援したくなってくる。
さらに税金をなくして、すべてを国債で賄う国家というものが考えられる。橋下さんの論(国債は資本である)を延長するとそうした構想を練ることは可能だ。株式会社の目的は資本家から資本を集めて、収益の上がる事業に投資をすることだ。国債国家の「収益」は徴税権なので、徴税に代わる収益源を見つける必要がある。考えられるのは、国家が所有する土地から収益を得たり、国民を労働力として稼働しその収益を国債購入者に配分するというようなものだ。そう考えて行くと、無税国家は「奴隷化」と「国有財産の収奪」だということが言えるだろう。実力のある人が成果を得るべきだと考える新自由主義者との相性は良さそうだ。
もっとも株主と違って国債購入者には投資の使い道に対する決定権がない。無税国家を実現するためには、国債の所有者に統治を認める「株主総会」を開けるように憲法を改正する必要があるだろう。
このことは却って、なぜ国民が税を納める国家が先進国になったのかということを考えるきっかけを与えてくれる。明治維新後の歴史を見ると、もともとは限られた納税者だけが議決権を持っていた。しかし、戦費を広く調達する必要があり、庶民から税を徴収した。さらに、兵隊も調達する必要があったが、この担い手も庶民だった。「負担を強要するなら、口も出させろ」というのが、民主化の動機だったのだと考えられる。
究極の国家事業が戦争だったので、敵国の脅威が民主化を進めたと考えることができる。つまり、戦争がなくなったから民主化が後退しつつあるのだということになる。成長や国際競争さえ諦めれば、一部の資本家だけが富を独占する国家を作ってもよいのだという理屈が生まれるのである。
「税金を払わなくていいよ」と言われれば生活の苦しい庶民は喜んでその政党を支持するかもしれない。それが後になって高い代償として返ってくる可能性がある。
橋下さんの政治センスはすばらしい。今回のピエロは経済学者の池田信夫さんだった。高橋さんを嘘つき呼ばわりしたのだ。すると「思想家には実行力がない」と批判した。庶民のインテリ層への反発(口先が達者な人がトクをしているに違いない)は根強い。つまり、専門家が反対すれば反対する程、橋下さんへの支持が広がる仕掛けになっている。今回出てくるかもしれない「高橋理論」は、日銀と政府を一体化を前提とするものであり、普通の経済学者なら色をなして反対するはずである。法律学でいうところの「立憲主義の否定」に似ている。つまり、否定が強くなればなるほど「専門家への反発」を支持へとつなげることができるのだ。
皮肉なことに、このポジションは池田さんが法律専門家に対して取ったのと同じものだった。「憲法さえ守られれば国がどうなってもいいのか。大切なのは現実である」と主張していたのである。


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