イスラエルのネタニヤフ政権がとんでもない司法改革を強行した。英米系のメディアでは騒ぎになっているのだがYahoo!ニュースなどではあまり注目されていない。ユダヤ系のほとんどいない日本では「関係がない」と思う人が多いのだろう。
背景事情はかなり独特だ。寄せ集め国家のイスラエルには憲法がなくアメリカの軍事支援によって成り立っている。憲法のないイスラエルでは最高裁判所が最後の砦となり民主主義を守ってきた。今回はこのブレーキがなくなる可能性がある。
前首相は最高裁判所に提訴すると言っており混乱は長引きそうだ。ネタニヤフ首相はペースメーカーを埋め込む手術の後すぐに復帰し法案を成立させた。今回混乱前提で改革を強行した裏にはネタニヤフ氏の健康不安という事情もあるのかもしれない。
長期政権のネタニヤフ首相には数々の汚職疑惑があった。一時は野党側が政権を奪還するのだが政策の違いで瓦解する。3年半で5回の選挙が行われたそうだ。ネタニヤフ主張は収賄罪などで起訴され公判も開かれていた。これを阻止するためにネタニヤフ首相が考え出したのが極右と手を組み政権を奪取した上で司法を無力化することだった。
ウルトラオーソドックスなどからなるイスラエル極右は国内でのユダヤ教徒の権利拡大を訴え、外ではパレスチナ自治区の支配強化政策も推進している。今後さらに「神権政治化」が進むのではないかと懸念する声がある。
イスラエルは「ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人」のための国家であることはよく知られている。世界各地からユダヤ人が集まってきたため系統も文化的背景も国家観もバラバラだ。このためまとまることができず憲法が作れなかった。憲法がないため最高裁判所が最後の砦となり民主主義の秩序を守っている。今回の法案ではこの最後の砦がなくなる。具体的には最高裁が政府の決定を覆すことができるという権限が剥奪されるのだという。
ではその狙いは何なのか。
朝日新聞は「2021年にネタニヤフ氏が政権を追われる一因になった汚職疑惑で有罪判決が出ても、覆せる可能性が高いと指摘されている。」と書いているがその根拠や理由づけは説明されていない。Newsweekは「ここまでやれば、ネタニヤフが収賄と背任の罪に問われている進行中の刑事裁判を、国会が止めることも可能だろう。」と書いている。
CNNは今回の事情を具体的に書いている。既に議会が首相に不信任を突きつける条件を厳格化している。今度はこれを最高裁判所が覆せないようにしようとしていることになる。裏返せばそれだけ野党勢力から追い落とされることを心配しているといえるだろう。
ネタニヤフ氏は抗議デモを受け、国会での法案審議をいったん停止せざるを得なかったが、今月に入って再開した。反対派は、同氏が汚職疑惑の裁判から自分の身を守るために、改革を強行しようとしていると指摘する。3月に可決された関連法案は、議会が首相を職務不適格と宣言する条件を厳しくする内容だった。
さらに「神権政治化」も心配している。つまりイスラエルがウルトラオーソドックスの独裁国家になってしまうのではないかという懸念である。各地でデモが起き金融市場も混乱している。
予備役の軍人たちが軍務放棄を宣言しているがラピド首相は裁判所に提起するので軍務放棄は待ってほしいと事態収拾に乗り出した。大統領には権限がなく今回の混乱を収集することはできないようだ。混乱は長引きそうだ。
これによって窮地に陥っている国がある。それがアメリカ合衆国だ。ヨーロッパからのイスラエル人の逃避先になっており多くのユダヤ系がいる。集金力が高いため民主・共和両党ともユダヤ系を取り込んでおきたい。
バイデン大統領は「ネタニヤフ首相をホワイトハウスに招くべきだ」と主張していた。アメリカ合衆国とイスラエルの良好な関係をアピールしユダヤ系の取り込みをやろうとしていたのだろう。
アメリカ合衆国は厳密には今回の司法改革には反対していない。民意を無視して司法改革をやるべきではないと言っているだけである。実際に民意は今回の改革に反発しているのだから、バイデン大統領がネタニヤフ首相との良好な関係を大統領選挙戦に利用することは難しくなりそうだ。
アメリカはイスラエルに対して多額の軍事費支援をしている。2016年に成立した10年にわたるMOUという枠組みに従った支援なので2025年まで続く。アメリカ国内にいるユダヤ系の支持を確保するために実質的にイスラエルを金銭的に支援して防衛していることになる。MOUを作ったのは民主党のオバマ政権だ。別の記事によればオバマ政権は多額の援助を維持することで暴走しかねないネタニヤフ政権に対してアメリカが関与できる余地を残そうと苦労していたようである。結果的にこの枠組みでネタニヤフ政権の暴走を止めることはできなかった。
CNNのライブアップデートによると抗議運動は激化しておりイスラエルの政治はかなり混乱する可能性がある。野党勢力は議決前に退席し与党だけで議決を強行した。
註イスラエルのアメリカ大使の経験もあるというマーティン・インダイク氏は「自分達の2本の足で立つことを考えるべきだ」と指摘している。「アメリカがイスラエルに対する援助を止める」という意味にとれるのだが、よく読むと「援助は神聖な牛(つまりふれてはならないもの)」とされており合衆国が自発的に援助を取り下げることはあり得ないという考えのようだ。
インダイク氏は結論を言っていないのだが「イスラエル側から断ってほしい」という意味合いのようである。アメリカの難しい立場がよくわかる。イスラエルがどんなに暴走しようが「援助をやめます」と言った瞬間に周りから襲われる可能性がある。つまりアメリカはイスラエルを切り離せない。
アメリカ(特に援助を推進した民主党政権)は多額の援助をした挙句に極右の暴走を許し宗教勢力が民主主義の「上」にくるというイランのような国を作り出しそうとしていることになる。さらに彼らがパレスチナに侵攻し自由を奪うようなことがあればイスラエルはロシアと同じということになる。これまでアメリカが非難していた「専制主義」を作り出してしまったことになってしまうのである。
民意や援助国であるアメリカとの関係をリスクに晒してまでネタニヤフ政権が司法改革を断行したのはなぜなのだろう。ネタニヤフ首相の個人的な背景も大きいのかもしれない。不整脈の診断を受けペースメーカーを埋め込む手術を受けたそうだ。もちろん全く根拠のない憶測なのだが、健康に不安を感じ自分の身を守るためにリスクを覚悟で無理な決断をしたのかもしれない。心臓に不安があってもネタニヤフ氏は休めない。
もちろん今すぐにどこかの国がイスラエルに襲いかかってくるということはないだろう。だがこのまま神権政治化が進めば有事の際に国際社会がイスラエルを応援することは難しくなるだろう。ウクライナの例を見てもわかる通り「民主主義を守る」ために多額の援助をするという国が多いのだ。専制主義化した国を応援したいという人はそれほど多くないだろう。