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政治家、マイノリティ、憲法改正

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先日来、同性愛者と政治家の関係について考えている。昨日のエントリーでは練馬区議の小泉純二氏を叩くような記事を書いたら明らかにいつもより多いページビューを獲得した。これを見て考え込んでしまった。
同性愛者は社会の目と戦っている。今ある社会的規範に従った生き方ができないからだ。小さい頃に「自分は他の人と違うのではないかと悩んだ」という人も少なくないかもしれない。「結婚して子供を作るだけが正常な人生だ」という社会規範と戦っているのだ。
政治家はこの権威によって支えられている。自民党が政権政党なのは「自民党に投票するのが正しい行為だ」と信じられているからだ。
この正解が牙をむいたのが、今回のバッシングだ。小泉純二氏は「自分が正解を設定する」と宣言し、それを「日本の伝統だからみんな従うべきだ」と言い切った。つまり、自分が「主人だ」と宣言したのだ。
ところが多くの有権者は「自分たちが主人だ」と考えている。そこで「主人を僭称する」政治家を叩いたのだ。数の上では叩く側が有利だし「人権を守りましょう」というのは社会正義なので、おおっぴらに叩きやすかったのではないかと思われる。これに「マイノリティ代表」の識者などが参入し、状況はさらに多数派に有利になった。
小泉氏は自民党のベテラン政治家だが、その得票率は5,000票に満たない。練馬区の人口は70万人程度らしいのだが、そのうち5,000人の支持を集めれば政治家になれてしまう。つまり5,000人の価値観を「日本人の価値観だ」と錯誤しやすいということになる。これが残りの人たちの反感を買う可能性がある。今回実際に叩かれたことから判断すると、こうした反感は爆発しかねないほどに鬱積しているのかもしれない。自民党は地方から「社会正義」に押しつぶされる可能性を秘めているのではないかと思われる。
こうした認識のずれに直面した政治家たちは「これは日本人が人権などというものを持っているからなのだ」と恨みを抱くようになる。これが「憲法改正議論」につながっている。「天賦人権」は日本人にはそぐわないというのが表向きの理屈なのだが、実際に憲法改正案ができたのは自民党が政権を失った時機に重なっている。
権威という点では、社会正義は神に似ている。神は服従を要求するが、社会正義は服従を要求しない。誰もが主人になる事ができるわけだ。しかし、この社会正義は実際の問題解決には役立たない。単に規範から外れた人たちを叩いて終わりである。
実はこの社会正義は多くの人を苦しめている。特に苦しんでいるのが「子育てか社会的成功か」という二者択一を迫られる女性だったり「子供を作って家庭をつくることができない」同性愛者だ。権威となっているはずの社会正義や規範は、こうした人たちの味方になってくれないのだ。
一方で政治家たちも自分たちの価値観を「日本の正義だ」と言って押しつけるばかりで現実的な解決策を提示することはない。そればかりか、憲法まで改正して自分たちに都合のよい解釈を押しつけようと画策するのだ。
不思議な事に「憲法を改正して、政治家の暴走を抑えて、家族の枠組みを多様化しよう」という人たちはあらわれない。実は人権派の人たちのほうが、憲法改正議論をした方がよいのかもしれない。