海老名の鶴指市議が酔っぱらって「同性愛者は異常動物だ」と書き込んで大騒ぎになった。Twitterで物議をかもすのはまだしもNHKのニュースにまでなった。議員は発言を削除したが「撤回しない」と言っていたのだが、後に「あれは酒の勢いだった」と釈明している。
残念ながら、バッシングは同性愛理解につながらない。これを機会に同性愛についての議論が深まればよかったのだが、いつものように「政治家イジメ」で終ってしまった。こうした強力なリアクションを見てもわかるとおり、現代日本では同性愛問題は重大なタブーだ。やはり異常だと見なされているということになる。
「同性愛は異常だ」という人はいわゆる「保守」の人が多いのではないかと思う。同性愛は伝統を破壊するという理屈付けだ。いつものように、この歴史認識は間違っている。伝統的に貴族、僧侶の世界では男性同士の「恋愛」が珍しくなかった。この伝統は武士にも受け継がれた。そして、これがタブー視されることはなかった。禁止されるとしたらそれは男性同士が愛し合うことがいけないからではなく、それが主従関係より優先されてしまうからだった。それほどまでに強い結びつきだったのだ。
また、こういった指向を持った人が「生まれつき男しか愛せない」というようなものでもなかった。つまり、男性も女性も愛するということがおおっぴらに行われていたのである。武士の間ではこれを「極めるべき道」とみなす傾向すら見られた。
「同性愛が生まれつきのもので、本人が選ぶものではない」という意識は、少なくとも日本では、近年になって生まれたものだと考えられる。江戸時代の中期頃までは選択的に男を愛したり、女性との間に子供を作ったりする人がいたのだ。
だから、日本の伝統を大事にすると主張するのであれば、安倍首相は美形の側近(国会議員や秘書)を抱えて、生涯に渡って添い遂げなければならない。そして、キリスト教の伝統によって押しつけられた異性愛の伝統に意義を唱えるべきだ。だが、現代の日本ではそのようなことは起こりえないだろう。伝統は「少年愛」にも及ぶが、現代のスタンダードでは単なる児童虐待だ。同性愛者を社会に受け入れるべきだという「リベラル派」からも猛反発を受けそうな話ではある。
タブーなく話すというのはそれほど難しいのだ。
やっかいなことに、同性愛についての科学的な説明は難しい。なぜ人が同性愛者になるかについてはよく分かっていない点が多いのだ。遺伝子のせいだと言う人もいれば、胎児の時のホルモンの影響だという人もいる。脳に違いがあるという説があったが、脳には違いが見つからなかったという研究結果も出ている。原因が分からないのだから正常だという証明もできないし、異常だと決めつけることもできない。
同性愛者は遺伝子を残せないはずなので、「ダーウィン的」に考えれば、自然に淘汰されてしまうはずである。しかし、そうはならない。人類が同性愛者だらけになれば人類は滅んでしまうはずだが、こうした人たちは一定数以上出現しない。全体としてある種のバランスが働いていると考えるしかない。
だから、同性愛者を考える上では、異性愛者の行き過ぎた性的指向についても考察すべきだ。男性の中には「衝動を抑えきれず」不適切な場所で性的な行為に及んでしまう人がいる。この人たちにも理性というものがあり「この場で性行為に及べば人生が破壊される」ということが分かっている。それでも、行為に及んでしまうのだ。性衝動というのはそれくらい強力だということが言える。もし、こうした強い性衝動を持った人たちが支配的になれば、人類は滅んでしまうだろう。
「ノーマル」な人類は、特定の相手とじっくりと子育てをすることになっている。つまり、男性が男性的な性衝動を抑えて、適度に「女性化」しているということだ。性衝動の極めて強い男性と女性化した男性というのは、バランスの両端にあると考える事ができる。
乱婚型の類人猿から見ると人類は異常な猿だといえるし、人類から見ると乱婚型の類人猿は異常だといえる。
ただこの「バランス説」も、同性愛のほんの一部しか説明していない。男性の同性愛者を「女性っぽい」という前提に立った説明だからだ。学説の中には「極めて男性的であるが故に男性が好き」という可能性を示唆する研究もある。つまり「男が女性化したから男性が好き」という説明すら成り立つかどうか分からないのである。