保育士の給与は低く家庭が持てないと言われる。母子家庭では高い割合で貧困が発生しているらしい。このような話を聞くと「日本にはお金がないのだ」という感想を持ってしまいがちだ。しかし、それが事実と異なるというのもよく知られた話だ。日本の企業は300兆円もの「内部留保」を抱えており、日銀には240兆円の当座預金が眠っている。これを人口で割ると450万円になる。
こうなった理由はいろいろ考えられる。一つ目の理由は企業が国内で稼がなくなったという事情がある。企業は海外子会社からの「あがり」で収益を得るようになっている。ニュースでは貿易収支は赤字だが、経常収支は黒字という言い方で伝えられる。つまり、日本は過去に蓄積した財産を海外に投資して、エネルギーや食料を買っているということになる。企業経済から社会経済への「水路」がなければ、社会経済へ水が流れてこなくなる。
しかし、国は法人税の負担を減らし、その分を消費税で取るようにシフトしている。黒字の経済を太らせ、赤字の経済から徴集しようというのである。そうしないと、企業が海外に流出してしまう懸念があるのかもしれない。
その一方で企業は社会的な支出を抑えるようになった。事業単体で見ると、赤字経済にかけるコストは減らす必要がある。そこで、人件費をカットしている。正社員を減らすことで会社は各種社会保険料の支払いを免れる。また、子供を産んだ女性を正社員から非正規雇用に置き換えるということも行われている。その分の負担は社会が負うことになる。黒字経済は赤字経済へ水が流出するのを抑えようとしているのだ。
人口構成もこの傾向に拍車をかける。高齢者は企業経済から離脱し、赤字経済から収入を得ることになる。年金は税金支出で支えられており、その原資の半分は国民からの借金である。高齢者(海外に会社でも持っていない限りは)は黒字経済から切り離されている。
企業は存続しなければならない(ゴーイング・コンサーン)から、コストを抑える意思決定には合理性があるように見える。ここで忘れられているのが「再生産」機能である。「再生産」のコストは、誰かが負担しなければならない。黒字経済はこれを赤字経済に付け回ししようとしている。そこで、再生産の費用が「投資」なのか「負担」なのかという問題が浮上してくる。
別の例えを考えてみたい。森の木が落葉する。この葉っぱが「無駄」だと考えて拾い集めてどこかに置いておく。するとどうなるだろうか。しばらくの間、森の樹には何の影響もないだろう。下に生える植物に影響が及ぶだけである。樹は高いところで十分に光合成ができるからだ。
ところが、しばらくすると事情が変わってくるだろう。落ち葉は分解されて地上に栄養をもたらしている。これが取り去られることで、地上に循環する養分は減って行く。最終的には地上からは養分が失われ、土壌は砂漠化するだろう。砂漠化した土壌では樹は育つ事ができない。皮肉なことだが、落ち葉という「死」がなければ、森は失われてしまうのである。「死」が大げさだと思えば「手放す事」だと考えてもよい。樹には落ち葉を分解する能力はない。それは地上に「委ねる」しかないのだ。
すべての物事は「相」を成しているに過ぎない。現在の経済学はこうした「相」のスナップショットを取ることはできても、全体を一括して捉えることができない。
再生産という言葉にはどうしても社会主義的な臭いがして好きになれないという人もいるかもしれない。逆に再生産という言葉を聞いて「マルクスは」と飛びつく人もいるだろう。そこで全く別の死を考えてみたい。
アメリカではイノベーションという言葉が好んで使われる。日本でも安倍首相が使ったりする。しかし、このイノベーションという言葉は、古い企業の「死」を意味する。これを創造的破壊とかディスラプティブ・イノベーションと呼んだりする。しかし、古い企業の死は喪失を意味するのではない。古い企業にいた社員は新しい産業に雇用され、古い企業が抑えていた資金は新しい企業に改めて利用されるのだ。日本でイノベーションが起きないのは当たり前だ。それは古い企業を壊す事ができないからである。
つまり「手放す」ことが豊かさを生み出すことになるのだ。こうした思想はもともと東洋的なものだと考えられるのだが、意外と忘れ去られているのかもしれない。