五ノ井里奈さんの事件の裁判が始まった。「笑いを取るために押し倒した」とする証言が社会的に非難されている。だがここではあえて「男性側の視点」から問題を捉えてみたい。「絶対的加害者である男性の味方をするとは何事」という批判はありそうだ。しかしそれでも問題を解決したいのなら避けて通れない視点なのではないかと思う。
コメントで任期付と任期制を誤用しているという指摘があり当該箇所を直した。元自衛官を任期限定で採用する「臨時制度」があり、それを任期付と言っているそうだ。
元自衛官で現在は柔道指導員をしている五ノ井里奈さんと元同僚の間で裁判が続いている。五ノ井里奈さんは「性的暴行があった」としている。
当事者は5人いる。国側と1人は「性的暴行があった」と認めているが残りの4人は「暴行はなかった」と争う姿勢だ。今回はそのうち3人の裁判だが「押し倒したのは確かだが格闘技ごっこであり猥褻行為ではない」という意味のことを言っており、腰を振ったのは「笑いを取るためであった」と言っている。
タイトルだけを見ると「なんとひどいことを」と思うのだが、そもそも「腰を振ることが笑いとして成立するのはなぜなのか」という疑問が湧く。
笑いについての研究において「緊張の緩和が笑いになる」と考える人は多い。社会の中にテンションが高まるとそれを緩和するために突拍子もない行動をとる人がいる。それが笑いにつながるというような知見である。この「緊張と緩和論」を採用するとこの状態が理解できる。
自衛隊は圧倒的な男性社会である。この男性社会に「どういうわけか」女性が入ってきた。柔道の心得のある人だ。そこで男性隊員は隊の中の「序列」をはっきりさせようとした。つまり序列が曖昧になり緊張したのでそれを回復しようとしたのだ。そこで五ノ井里奈さんを押し倒して最終的に腰を振ることで「男性の方が女性よりも力が強い」ことを示そうとした。
「男性は女性よりも優位にいるべき」だとする人が女性と競わされる。「なんだお前はだらしないな、女に負けているじゃないか」ということをいう指導員もいたのではないか。これは彼らの「男性としてのプライド」を傷つける。そこで文字通り「マウンティング」をして上下関係をはっきりさせようとしたと説明ができる。
この説明を書いただけで非常にどきどきしている。おそらく事実を矮小化しようとする男性の企みであり断じて許されないという指摘があるはずだ。後述するように日本社会の女性には常にこの矮小化圧力にさらされている。
どきどきしつつ先に進める。そもそもなぜ国は男性と女性を対等に競わせようとしたのか。
もともと低い階級の自衛官は任期制という現実がある。
前回、岐阜で起きた乱射事件の時に「自衛隊は経費を削減するために最近になって任期制を導入したのだろう」というようなことを書いた。今回改めて任期制について調べていてこれが誤認だったことに気がついた。「きちんと調べて書くべきだ」と反省した。
現在では任期が終わるとセカンドキャリアを自分で見つけなければならないため人気がない。このために場当たり的な改革が進んでいる。
ロイターが2018年の「少子化で静かな有事」という記事を書いている。任期制自衛官で階級の低い若い自衛官の採用計画が達成できないくなっている。そこで年齢上限を26才から32才に大幅に引き上げた。非任期性の採用枠も作った。さらに退職した人を再雇用する制度も作ろうとしている。加えて、女性の活用も推進すると言っている。つまり男性だけでは足りなくなってしまったのである。女性の採用は「人手不足」解消の苦肉の策として導入された。
今回の件で「制度に投げ込まれた」女性に対して防衛省が何の配慮もしていないということは明らかになった。だが、意外と「投げ込まれられた」男性側の視点は語られない。任期制男性は「将来不安」にさらされている。そしてこの将来不安は自衛隊の制度を改革しても改善されない。
今回改めて自衛官の任期制について調べたのだが「いつから始まったのか」という記述は見つからなかった。つまり当然の制度として昔から存在していたようだ。
任期制自衛官が採用される理由は「精強性確保」と説明されるようだ。産経新聞に記述を見つけた。
普通の企業で例えると「営業マンは若ければ若い方がいいから非正規にやらせる」というような対応なのだが、自衛隊ではこの制度が比較的うまく機能していた。就職口のない若者の代替就職先になり資格も取得できる。さらに数としては少数だが「曹」になれる人もいる。大学とまでは行かないが専門学校程度の機能は果たしていた。
驚くべきことに、つい最近まで任期があったとしても自衛官は人気の就職先だった。2010年の朝日新聞に次のような記事がある。リーマンショックで景気が悪くなると「任期を満了しても民間へ転職せず部隊に残る自衛官が増え」たのだそうだ。このため採用枠が限られ狭き門となった。つまり民間の雇用が悪くなると自衛官として勤めたいという人が増える。
厳しい民間の就職事情をみて『こんなときに辞めて就職活動をするよりは』と残留を選ぶ隊員が多いことが背景にあるのでは
などと分析されている。
この頃には逆に「バブルの頃には資格を取って出ていってくれる人が多かったが居残り組が増えると新陳代謝が滞るのでは」などと心配されていた。
歳を取れば「精強ではなくなる」ので一部の人は管理職にしてやるが(とはいえ主任止まりなのだが)あとは「どうぞ出ていってください」と言う制度だ。これを「あたかも教育機関」のように見なすことで維持してきた。さらにその戦術はある程度成功していた。
だが近年ではこの前提が崩れている。
終身雇用制度が崩壊し非正規雇用が増えている。岸田政権に至っては終身雇用制度を破壊し「転職しやすい」社会を作ろうとしている。任期制自衛官を「疑似教育機関」と見なせる前提は「その後の安定した雇用」なのだから、その前提が崩れると任期制自衛官の制度も成り立たなくなってしまうのである。論理的には整理できる。だが自衛官の問題を解決するために若者の将来不安を解消すべきだとなると「一体どこから手をつけていいか」わからなくなる。
自衛隊は「大学を卒業したら終身の雇用ができる」という従来の社会モデルを前提にして自衛官の任期を2年から4年にしようとしている。つまり専門学校でダメなら大学みたいにすればいいのでは?という程度の発想だ。任期制自衛官の大半が高校新卒なので「卒業」を4年にすれば一般の大学生と同じだという論理になる。
システムが形骸化すれば当然システムの中に残っている男性は「不安定な」精神状態に置かれることになるはずだ。だがそれでも「俺はみんなより強いんだ」という自意識がある。そこに「何の説明もなく」女性が投げ込まれた。
朝日新聞によると五ノ井里奈さんは現在柔道の指導者の仕事をしている。つまり柔道の心得のある「強い」女性であり男性と同等に活躍することが期待されている。だが結果的に「男は女より強いんだ」というような待遇を受け適応障害を受け退官を余儀なくされた。現在でもフラッシュバックがあるという。
こうした緊張感をBBCは克明に書いている。高い希望を持って自衛隊に入隊した五ノ井里奈さんは訓練が終わると毎日のようにセクハラを受けるようになった。この時に男性たちが五ノ井里奈さんをことさら「男性に従属するべき女性」とみなそうとしたことが窺える。背景には切実なものがあったのだろうがそもそも当事者の男性がそれを認められない。
今回の問題において「実は問題の本質はレイプではないのではないか?」と書けば社会的に非難されるかもしれないと感じている。なぜならば、同じような境遇の女性がこの国には多いからである。
男女雇用機会均等法の第一世代の人たちは「総合職」に女性が進出したことで緊張を強いられた。男性は「女の仕事はしょせん腰掛け」であり「男性が所帯を支えるべきなのだ」という感覚に支配されていた。女性たちも「男性に負けてはいけない」という気持ちを持ち「女性としての良い点を捨てなければならない」と思い詰めた人が多い。さらに、男女雇用機会均等法ができてからしばらくしてバブルが崩壊すると男性側がさらに危機感を持つようになり次第に男女雇用機会均等法の理念は失われていった。
このような背景があり五ノ井里奈さんの問題は「男女の代理戦争」として機能している。今でも「地位が脅かされている」と感じる男性は五ノ井里奈さんを中傷する。この戦いはかなり過酷なようだ。五ノ井里奈さんは「命を削って」これと戦っていると表現する。
この事件には二つの側面がある。一つはなんの配慮もなく現場に投げ込まれた「女性」の問題でありもう一つは身分保証のないままに女性と競わされるが古い価値観を捨て去ることができない「男性」の問題である。この問題を構造化して議論する人はおらず、従って解決策は見つからない。そこで「無理解な男性社会との戦い」だけが大きくクローズアップされてしまうのである。
危機にさらされた日本社会の男性はタッグを組んで女性を序列から排除する方向に進んだ。このため女性の社会進出が大きく遅れている。一方で一部の男性側は古くからある「望まれるべき男性像」にことさら支配されるようになった。ジェンダー闘争の第一世代は「とにかく男性と戦うべきだ」というマインドに縛られてきたが、新しい世代では「このような呪縛は男性も不幸にするのではないか?」という点に注目するように変化している。
「石を投げる」のが目的ならば男性自衛官だけを責めて終わりにすればいい。五ノ井里奈さんが置かれた環境や現在置かれている環境の過酷さは察するにあまりある。だが仮に問題を解決したいのならば男性側の視点も考慮すべきなのかもしれない。
ただ男性側の視点に立てば「では今回の問題をなかったことにしろというのか?」と単純化する人が必ず出てくるだろう。おそらく主語を「五ノ井里奈さん」にして「五ノ井里奈さんが男性を脅かしている」と誤読する(あるいはわざと誤読してみせる)人が現れてくるのだと思う。
Comments
“五ノ井里奈さん性被害事件で忘れられがちな「脅かされる男性側」の視点” への6件のフィードバック
素晴らしい視点です。
ただ一点、どうでもいい事ですが、誤変換を発見しました。
>危機にさらされた日本車化の男性はタッグ
危機にさらされた日本社会の男性はタッグ
だと思いました。
細かい指摘ですみません。
ご指摘ありがとうございました。修正しました。
1)紛らわしいですが、「任期付き自衛官」というのは、育休取得中の自衛官の代わりに、元自衛官を臨時で雇用する制度の事のようです。記事中で指摘されたかったのは、自衛官候補生として入隊する「任期性自衛官」(2年から3年の任期が満了)の事ではないでしょうか。
【任期付き自衛官】
https://www.mod.go.jp/gsdf/about/recruit/fixed-term/index.html
【任期性自衛官】
https://www.mod.go.jp/j/profile/syogu/shinsotsu_ninkisei/
2)下記記事の内容を参照すると、事件の被疑者の肩書には「曹」が付いているようです。「任期性自衛官」の階級は「士」で、「曹」が付くのは「一般曹候補生」で入隊した任期の無い(定年まで勤務可能な)自衛官ではないでしょうか。
【記事】
https://president.jp/articles/-/59810?page=3
【一般曹候補生と任期性隊員の違い】
https://xn--fhq61f0wme33buzgk5v.com/enrollment_classification/
【自衛官の階級】
https://www.mod.go.jp/j/profile/mod_sdf/class/
3)高卒・大卒で入隊する時に、一般曹候補生(定年までOK)と自衛官候補生(任期2・3年)を自分で選択可能であり、任期性自衛官の任期と途中で、一般曹候補生の試験を受け直て(合格して)身分を変更する事も、本人の努力と能力によっては可能なようです。
なるほど。二つあるんですね。「任期のある自衛官」のように書き換えた方がいいかもしれないと思ったのですが、任期「制」自衛官に書き換えた上で記事のリードにコメント欄で間違いの指摘があったと記録しておくことにしました。ご指摘ありがとうございました。
二番目の「当事者」が任期のある人だったのかそうでないのかですが。30歳の人が任期がある自衛官でなかった可能性は高いと思うのですよね。そもそも性被害を否定している人と認めている人がいてそれぞれどういう構成なのかは分かりません。自ら進んでやった人と「周りがやっているから自分もやっていいんだ」と思っている人もいるでしょうが、その辺りもわかりません。加えて言えば、五ノ井里奈さんが任期制だったかも実は報道ベースではわからないです。元自衛官とか書かれていないケースが多い。
いずれにせよこの辺りのことをきっちり整理した上で伝えてあげないとBBCあたりに「だから日本は遅れている」と言われただけで終わるということになってしまうんじゃないかなと思いました。
別のコメントでは「社会的非難が集まっただけで自衛隊もピリッとするのでは」というご意見をいただきました。これはこれで一理あるとは思うのですが「SNSが騒がないと動かない」という事象も増えていますよね。なかなか難しいところです。
記事を読む限りこの事案は、証人だけで物的証拠が無いので、起訴できたとしても、被疑者を裁判で最終的な有罪にするのは困難ではないかと予想します。
一方で、この「悪名高い中隊」がマスコミに晒される事で、陸自の上の方から綱紀粛正の強い圧力を受けて、現場が大きく改善される事も予想されますので、被告が実名を晒して裁判を起こした「意義」は非常に大きいのではないかとも思いました。
これは「男性のほうが強い」から起きた事件ではなくて
「上官のほうが権力が強い+多数のほうが強い」という立場の差で起きた事件であると思います。
仮に男女の比率が逆であったなら起きていなかったでしょう。
どういうわけか投入された女性自衛官ではなく、極端な男女比を是正する目的をもって投入された女性自衛官なのでは。