バブル崩壊後、多くの政党が改革を訴えてきたが、金融危機対策は行われず、財政バランスも改善しなかった。政治家は考え方で結びつくよりも「好き嫌い」を優先させて離合集散を繰り返した。また、国民も改革を継続的に支持しなかった。
日本の無党派層は「嫉妬の感情」によって政権交代に関与してきた。その端緒になったのが1993年の政権交代だ。バブル期に土地や株の値段が上がると、その分け前に預かろうという政治家が増えた。1988年年にリクルート事件が起こり多くの政治家が関与していることが分かると、国民の政治不信が加速した。同じ年に消費税が導入され、翌年に施行された。
国民は当然「自分たちには負担を押しつけるくせに、自分たちは良い思いをしている」と感じる。この「ズルい」という感覚が1990年代に政治を動かす大きな原動力になる。
この流れで出てきたのが、小選挙区制の導入と政治資金規制などの「政治改革運動」だった。バブルが崩壊すると政治改革への期待はさらに高まったが、宮沢首相は自民党の議員をまとめることができなかった。これに反発した小沢一郎と羽田孜が宮沢内閣倒閣に動き、自民党が分裂した。
守旧派になった自民党は選挙で敗北し、1993年に8党連立による細川内閣が誕生し、小選挙区導入と政治資金規制を決めた。しかし、細川首相が「国民福祉税」として消費税を増税する方針を打ち出したことから国民の反発を受け、そのまま瓦解した。
細川内閣の後継は羽田内閣だった。10党1会派による連立だった。しかし、一部に社会党はずしの動きがあったため反発した社会党が離脱した。羽田内閣は少数与党内閣になり、新予算の成立を待って64日で瓦解した。
1994年4月、羽田内閣で統一会派からはずされた社会党と小沢一郎と反目していた新党さきがけが自民党と組んで、社会党の党首を総理大臣に頂く村山政権を成立させた。この「自社さ」の枠組みは1998年の橋本内閣まで続いた。しかし、政権与党となった村山社会党は原発政策、日米安保、自衛隊を肯定する発言を行ったため支持者の離反を招き分裂騒動が起きた。一部の議員は民主党に流れ、社会党は社会民主党に名前を変えた。
この時代はバブルが崩壊直後にあたる。もし早目に手を打っていれば慢性的なデフレ状態には陥らなかったかもしれない。しかし、国民は政治改革に夢中でバブル処理を早くやれという声は上がらなかった。諸政党が乱立し思い切った金融改革は行えなかった。
小選挙区制で少数政党は成立しにくくなったが、社会が複雑になったので有権者の政治的意見は多様化したのだ。このため、諸派が乱立し連立政権を組む過渡的状況が生まれた。民主党が多様な政治的見解の寄せ集めなのは、そのころの名残だ。
当時、特に目立っていたのは「小沢一郎が好きか嫌いか」という理由による離合集散だ。
小沢一郎はもともと、大きな政府主義の田中派に属しており、竹下政権では消費税導入に尽力した。その後、政治改革がブームになると「改革派」「新自由主義者」を自称するようになった。諸派が集ってできた新進党の党首に就任するも党内グループの反発を招き離脱して自由党を設立した。その後、自民党への復党を画策するものの断られ、民主党に接近した。民主党では「地方重視・雇用重視(つまり大きな政府)」へと転向し、民主党2009年マニフェスト(財政裏付けのないバラマキ政策)へとつながった。民主党政権末期に野田政権が消費税増税を決定すると反発して離党した。その後、左派に接近し日本未来の党と合併する。それでも党の勢力は盛り上がらず、政党を維持できない状態にまで追い込まれた。そこで、反核・反原発勢力に支えられて当選した山本太郎参議院議員が入党し、左派政党の党首になった。
これまで何度も「改革」が求められてきたのに、改革政党は長続きしない。これは国民が「改革」を望んでいないのだと考えないと説明がつかない。