中年期には余裕がない
「厄年」と呼ばれる年齢に達すると、自分の人生はこのままではいけないのではないかという漠然とした違和感を感じる。しかし、この年齢の人たちは社会的な責任と義務を抱えてる。会社では役職が付き、支えるべき家庭もある。さらに、家のローンも残っている。
迷っている場合ではない…と感じるのが当たり前だ。
ところが、このちょっとした違和感は単なる気の迷いではないかもしれない。それどころか、社会を変革するための重要な原動力になる可能性もある。また、中年の危機を見過ごすのは、個人ではなく社会にとって大きな損失になり得る。
なぜ中年の危機が起こるのか
そもそも、中年の危機はどうして起こるのだろうか。
ユングは社会的な目標は人格の縮小という犠牲なしには追求できないと考えた。つまり、人は好き勝手に生きて行くことはできず、必ず社会の要請に従って生きて行くのである。しかし、縮小された人格はそのままでは収まらない。必ず無意識の補償作用が起きている。抑えられたものはどこかにはけ口を求めるのだ。
これが精神的な不調につながる。この不調が顕著だと、40歳頃に抑鬱状態が起こることがある。そして50歳くらいになるとついに耐えきれなくなる。問題がここまで放置されると、かつて持っていた目標は色あせてしまい、ひどい場合には回復しないこともある。
人格は対立しかねない複数の要素から成り立っている。対立構造は人によって異なる。これを一つに統合して行くのが人生の目標だ。この統合過程を個性化と呼ぶのだが、社会的に発展させているのはその内のほんの一部なのである。自分の人格が何であるかとは関係なく社会に要請された役割を演じているだけの人もいるだろう。
深刻な対立を統合するためにはどうすればよいのか
複数の人格的な要素を統合するにはどうすればよいのだろうか。
対立は「どちらか一方を採用する」ことでは解決できない。しかし、何が対立しているのかを意識すると「過大成長」とも呼べるような新しい成長が起こる。すると、対立は過去のものになる。ユングは成長に頼る解決方法が害をなす可能性を指摘する。35歳以前には成長のための準備ができてないし、対立に捉えられてしまうしまう場合もある。
危機の修復は自発的な作業だ
対立を乗り越える作業は自主的に行われなければならない。内面と環境から解決のヒントを得て、自分で乗り越えて行く。医師は側にいて手伝いをするだけだ。その人の内側に何があるかを知るためには、その人が生み出すファンタジーや無意識が反映する夢を考察するのが「ユング流」のやり方だ。
『赤の書 – The“Red Book”』はユング自身が書いた壮大なワークブックだ。ベストセラーを目指して書かれた訳ではないし、そもそも公開することすら目標になっていない。他人が読んでも意味はよく分からない。多分、買って読むような本ではないが、一度は眺めてみる価値がある。
さて、中年の危機が必ず厄年(数えで42歳)で起きるとは限らない。違和感を得たときが、この「過大成長」のチャンスかもしれない。社会は個人の集合体なのだから、個人の成長は社会の成長につながるだろう。
一方で、生産性の低下というコストを支払う必要がある。この時期に大幅な目標の再設定が起こるからだ。つまりこの時期は生産期ではなく、新しい成長へ向けての休眠期だということがいえる。人によってはこれを人生からの落伍や失敗だと捉えるのではないかと思う。
日本ではこの時期を男性の厄年と位置づける。プレイヤーから貢献者や見届け人といった、地域の「役」に就く年齢に当てられる。厄年が「役年」だと言われる所以である。ユングのいう個人化のプロセスとは異なるのだが、その人の役割が大きく変化するという意味では似通っている。
現代の日本社会はこの厄年という「非生産性」に割くコストが捻出できなくなっている。この時期は会社では出世競争の最終段階だ。主流ポストに就けるかという瀬戸際なのだ。この結果、多くの人が青年期に設定したゴールをなんとか抱えながら定年期を迎えることになる。選択肢の幅は狭い。また、地域には果たすべき「役」もない。
現代と同じく、ユングの時代もこうした違和感を「個人の不調だ」と考えた。
日本社会には根強い正解の文化がある。製造業の強い社会らしく、社会が正解を設定し、不良品をはじいて行くという仕組みができ上がっている。正解からの逸脱は、不良品として扱われるリスクでしかない。
不調がもたらす壊滅的な破壊
高度経済成長が終わってから、男性の自殺率が上がっているといわれる。主な理由は経済の不調だ。経済の不調はその人の社会的人格の全否定につながる。同時に健康を損ね、家族を失ってしまう場合もあるようだ。逆に、健康を損ねて経済活動を維持できなくなり、それが経済の不調につながることもある。
正解から外れたことを理由に死を選ぶ人もいる。みずからベルトコンベアから降りてしまう)のが日本の現状だ。
しかし、人格の発展は、必ずしもいまある社会を肯定するとは限らない。人によっては社会を根本から破壊することもあるだろうし、そもそも、正解のない個人的な作業だから、それが「善」か「悪」かは分からない。
私達は中年の危機に対峙するべきか
個性化プロセスを完成させる事ができる人は、内側の声に気づき、因習の代わりに個性を発展させることを決意し、孤独に耐えつつ、新しい目標を設定できる人だということになる。まるで修業のようだ。ユングは夜の海を行くようだとする。また別の文章では人格の追求は道(タオ)を追求するのに似ていると考察する。
さて、我々は、社会善になるかどうかも分からなければ、生産性を改善するために役に立つかどうかが分からない事柄に対して、真剣に取り組む必要があるのだろうか。ある意味「道の追求」は、内面から何か役割を与えられるようなものだ。やり過ごすことができるのであればやり過ごしても構わないだろう。
しかし中年の危機に捉えられた人は、この事を自分だけの問題だと考えずに、同じ問題に対面している人の為に何ができるかを考えてみるとよいかもしれない。自分自身の危機を解決することによって、似たような問題を抱えている人の手助けになる可能性もあるからだ。
また、人の問題を社会のために解決してやろうとは思わない方がいいように思える。結果として、自分の問題を棚上げにして、他人の問題のための奔走することになりかねない。
変革は個人の成長が主導すべきだ
様々な行き詰まりを目の前にして、フォロワーは英雄を待望している。我々がまだ気がついていないやり方でたちどころにこの閉塞感を打開してくれることを期待する。しかし彼らの辛抱は半年ほどしか続かない。当初の期待が失望に変わる。
我々は「変革」を期待しつつ、自分たちが変わることは望んではいない。しかし社会が一夜にして、全ての人を満足させるように変わることはあり得ない。結局溜まった力は制御不能になってはじめて我々の社会を変える力を生み出すことになるのかもしれない。それはとても不幸なことだ。
暴力を排除しつつ社会的な変革を目指すためには、個人が少しづつ変わって行く事が必要である。そのためには、違和感を大切にしたうえで、個人個人が自分が何をしたいのかを自分自身の言葉で考察できるような意識を持たなければならない。
このようにして、個人の中年の危機は社会変革に大きく関わっている。私達は中年の危機を単なる個人の不調と捉えるのではなく、内面的な違和感が持っている社会的な意義を再評価すべきだ。
2013年2月4日:書き直し