ざっくり解説 時々深掘り

暴力で安倍政治を「総括」した山上徹也被告は「生きる伝説」になったのか?

Xで投稿をシェア

カテゴリー:

産経新聞が「陰謀論抑止に」「裁判員に予断」 公開か非公開か賛否真っ二つ 安倍氏銃撃の公判前整理手続きという記事を書いている。山上徹也被告の公判前整理手続きをどの程度公開すべきなのか?という「議論」があるというのだ。産経新聞の指摘とは裏腹にそういえば安倍晋三暗殺事件は世間からすっかり忘れられてしまっているなと感じた。山上徹也被告の異常性や凶暴性が連日報道されるというような「センセーショナルなニーズ」がないからなのかもしれない。

Follow on LinkedIn

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

|サイトトップ| |国内政治| |国際| |経済|






産経新聞の議論は入り組んでいる。

江川紹子さんが「この裁判の後半前手続きは公開すべきである」という論を引き合いに出し「不審物騒ぎで議論が高まっている」としている。日本人が「みんながこう言っている」という時はたいてい「自分がそう思っている」ということだ。だから、おそらく産経新聞がこの裁判に注目を集めたいのだろう。産経新聞がなぜこの裁判に注目を集めたいのかについては後ほど考察する。

まず江川さんの主張から見てゆこう。検索すると二つの記事が出てきた。江川紹子さん「ら」となっている。ジャーナリストで作る団体が公開を求めているという話のようだ。

江川さん「ら」は

  • 事件に対する関心が高い
  • さまざまな憶測が出ている

ことから公判前整理手続きを公開にするか代表団に取材させろと言っている。それでも無理なら内容を事後的に報告しろと要求している。「記事を書く材料が欲しいのだろうな」という気がする。

「公正に裁いた」という言葉に違和感を感じる。おそらく無理だと思うのだ。

日本において「公正」というのは「みんなが納得できるように」と同じ意味である。つまり「みんな」が同じ意見を持っているということが前提になっている。そもそも今の日本にはそのようなものはない。みんな好き好きに自分の立場に閉じこもり好き勝手なことを言い合っているだけである。

確かにわざわざ探すと「山上徹也被告に対する意見は大きく異なる」とか「陰謀論が燻っている」とする記事はある。だがどれも他人事である。

郷原信朗氏は「安倍氏襲撃で露呈した“安倍支持者”の「底の浅さ」 なぜか「反安倍」と襲撃を結びつける陰謀論」というエッセイを書いている。さらに読売新聞にも「安倍氏銃撃「真犯人は別にいる」…ネットでいまだくすぶる陰謀論、背景を探る」という記事がある。

両方とも「お互いに自説にこだわった議論を繰り返している」として第三者的に「陰謀論」を語る人たちを責めている。確かにインプレッション稼ぎの陰謀論は見つかるかもしれないのだが。肝心の「陰謀論を信じている人たち」がいない。この点がQアノンの信奉者が多く実際に政治運動に結びついているアメリカと大きく違う点だ。

安倍政治は「一部の敵」を作り残りのみんなをまとめるという分断統治手法だった。安倍総理には多くの支持者がいた。「あなたたちは変わらなくてもいいんですよ」というメッセージに居心地の良さを感じたからだろう。一方で名指しされた「あんな人たち」からは大きな反発があった。

しかしこれは厳密には「政治」ではなかった。政治問題はどこか別のところで処理されている。人々が熱中したのは対立と自分達の陣営の正当化だった。だが、安倍晋三氏が暗殺されるとそもそもの対立が消えてしまい、今ではたいして語られなくなっている。

当時「前代未聞だ」と言われていた元総理大臣の暗殺はSNSで消費されて終わりになった。

ジャーナリストたちは安倍総理の「分断統治」に強く反発していた。だがそれでも下を作って安心したい「みんな」には勝てなかった。「上を見ないで下だけを見て暮らせ」というのは日本の伝統的な統治手法だがこれに居心地の良さを感じる人は多い。有権者は政治の担い手ではなく統治される存在に過ぎない。むしろ「お上への反抗」をする人間を一揆に加担した逸脱者と決めつけて抑圧する方向に進んでしまう。

このような統治土壌の日本では民主主義を志すジャーナリストの「民主主義を勝ち取る戦い」は敗北に終わる。それが「無駄」であるということがわかりつつも「私」を捨てて正しい道に命を捧げるというのが真のジャーナリストなのだろう。

いずれにせよ公判前整理手続きをや裁判を見つめてもその答えは出てこないのだろうし、人々は大したこだわりなく「自分達の考え」を持ち続けるだろう。そもそも安倍政治は既に大した総括もなしに忘れ去られつつある。

江川さんの側の主張はなんとなく整理ができる。なぜこれを産経新聞がわざわざ取り上げるのかがわからない。

シュリンクする組織票に依存する自民党にとって無党派層の取り込みは非常に重要なテーマだった。おそらく偶然に安倍晋三氏が見つけた金脈は「自分は強くて正しい側にいる」と思い込みたい人たちだ。彼らは自分達を「保守」と自称している。

岸田政権に変わると自民党は「保守」を代表しているのではないということがわかってきた。彼らは単に無党派層として利用されてきただけである。

例えば彼らにとっては、LGBTの問題で表立って造反者が出なかったことも「裏切り」と感じられるのではないか。衆議院は複数の欠席者と1名の腹痛患者を出すだけに終わり、参議院でも青山繁晴、和田政宗、山東昭子という「いつもの顔ぶれ」が欠席しただけだった。彼らは「保守」や「宗教」の票はほしいが、かといって党の公認を捨ててまで維持したいものではない。

産経新聞はこの「埋没」を恐れているのだろう。

清和会・安倍派も自民党の中で埋没しつつある。1年経っても後継者が決められない。「保守」の側にたちつつも血統が正しいプリンスが現れない。清和会で血統が正しいのは福田達夫元総務会長だがおそらく彼はエリートの味方であって「保守」の人間ではない。残りの人たちは選挙での弱さを補完するために保守のバックアップがほしいというような人たちばかりである。

安倍政治がつなぎとめてきた人たちは徐々に維新に流れ込みつつある。彼らは「日本がパッとしないのは生産性の低い政治家のせい」と考える。常に世界は上下関係で捉えられ自分達は「上」の立場にいるというのが「保守」の世界観だ。ただしこれまでの「長くて立派な歴史」は「現代的な生産性の高さ」と言った要素に置き換わりつつある。要するに自分達が正しくて立派であるということが証明できれば錦の御旗はなんでも構わない。単に他人に対して優越感が持てればなんでも構わないのである。

埋没を恐れる「保守」にとって最も深刻なのは「安倍晋三さんが亡くなった」という非常にショッキングなニュースがそのまま埋没してしまうことなのだろう。そこで裁判に注目を集めるために「議論」を作りたい。

仮に山上徹也容疑者に悲惨な生育歴があり人格的な問題を抱えた「破綻」などが見えれば、この裁判はそれなりに注目されるであろう。大衆は常に自分の正しさを証明するために石を投げる誰かを探している。あるいはその主張がめちゃくちゃなものであれば「現状を破壊するもの」としてカリスマ的な人気が獲得できたかもしれない。「身分制封建社会」を生きる日本人にとって事件はその程度の意味合いしかないのではないかと思う。

今のところ山上徹也被告にはそのような資質は見られない。つまり彼は「生きる伝説」にはならなかったのである。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで