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カール・グスタフ・ユングの時代

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カール・グスタフ・ユングは1875年にスイスで産まれた。父親はプロテスタントの牧師だった。Wikipediaには触れられていないが、母方には心霊術的なバックグラウンドを持つ人たちがいた。
カトリックは教会が一つの家族のようになっている。故に神父は家族を持つことはない。修道女も同じく結婚しない。しかしプロテスタントは必ずしも聖職者の結婚が許されていないわけではない。
改革派はカルバンによってはじめられ、主にスイスで発展したのだそうだ。カトリックとの違いは地域のことを地域で決めるという政治形態だ。また、産まれたときに洗礼を受けても、成人時に改めて信仰告白をする必要がある。
カトリックは、教皇を中心とした権威が聖書の解釈を決めている。トップダウンの政治形態を持つ。一方、改革派のキリスト教徒は、長老と呼ばれる人たちによって管理され、常に信仰告白(ドクトリンと呼ぶそうだ)を通じて、自らをリフォームすることになっている。
ユングは、この父親からあまり影響を受けなかった。ユングが聞く聖書の解釈にあまり自信がなく「決まっているからそうなんだ」というような姿勢に落胆していたようだ。父親は生活の為に牧師になったとも言われていて、生活のために宗教があるような状態だったのかもしれない。一方、母親には優しい表の側面となにかしら怖い裏の側面を見ていた。母親が心霊的なバックグラウンドを持っていたこともあり、ユングの最初の論文は「夢遊症と霊媒現象」を持つ少女の研究だった。
そのころの北ドイツはプロイセンを中心にプロテスタントドイツ圏が統一されつつあった。1866年にはオーストリアとの間で戦争がある。1867年には北ドイツは統一され、1870年にかけてドイツ帝国が成立する。次の統一対象は南部ドイツだった。こちらはカトリックが中心だったので「ドイツ語」を話す人たちを、ドイツ人と定義した民族主義が「発明」された。
しかし、ドイツ語を話すが、多民族国家だったオーストリアは枠組みから排除された。だから、ドイツ民族にとっては、自分たちは何者であるかということは一筋縄で片付けられる問題ではなかった。そこには、言語(ドイツ語)、民族(ドイツ人というより、ゲルマン人という意識が芽生え始めていたようだ)、国家(ドイツ、スイス、オーストリア)、宗教(カトリック、プロテスタント)という事情が絡み合っていたのだ。オーストリアは、1867年にハンガリーを含む多民族国家を成立させる。
このドイツの民族主義は次第に周辺各国とぶつかり合うようになる。ユングはある夢を見るのだが、ヨーロッパには緊張が高まっていた。このときユングはオーストリア人のフロイトに接近する。ユダヤ系だったフロイトは、ゲルマン人だったフロイトを自らの学派の後継者と見なしていたのだ。
ユングの心理学とフロイトの心理学はちょうど鏡合わせの位置にあるように思える。フロイトは心理学にエネルギーや力学といった科学的な要素を組み込んだ。実際に実験で証明できないので、純粋に科学とはなり得ないのだが、これは当時としては画期的なことだっただろう。ユングも統計を使って言葉に対する反応速度を探る科学的な手法を考案するのだが、一方では心霊のような証明できない事象も排除しなかった。
フロイトは幼少時のトラウマ(母親の愛情不足や父親の抑圧的な態度)が生涯の性格を決めると考えていたのだが、ユングは必ずしも全てを幼少時の性的な体験に結びつけるべきではないのではないかと考えていた。幼少時の父親との関係も違っていた。フロイトの意識は外を向いていたのだが、フロイトは自分の内面を見つめる(つまり内向いている)という違いもある。
最大の違いは、内面にある意識が及ばない領域に対する扱いの違いだろう。フロイトにとって無意識は人々を苦しめかねない存在だった。しかし、ユングにとってそれは成長しつづける、創造性の源泉になっている。フロイトにとって精神的な病は、幼児期に原因があり、治療すべき異常な状態だ。しかしユングは、人が成長する上である種、精神的にアンバランスになることがあり得るのだと考える。
1914年までヨーロッパは、ドイツ、フランス、ロシアなどの各国がお互いの緊張状態を利用しつつ、結果的に均衡を保つという危うい状態を維持していた。結局、オーストリア=ハンガリーの皇太子がセルビアで暗殺されるという事件をきっかけに戦争状態に突入した。この戦争は1919年まで続き、第一次世界大戦と呼ばれるようになる。1916年にユングはフロイトと決別する。結局、ドイツは敗戦し共和制に移行した。これがユングの40代だった。
ドイツは、この第一次世界大戦の敗戦から立ち直る過程で、民族意識を過剰に高揚させてゆく。使える理論は全て使い、一つの方向に向かって邁進した。ヒトラーは1889年生まれのオーストリア人だった。しかしなぜかドイツに流れ込み、1933年に首相になり1939年にポーランドに攻め込んだ。そしてこれが、第二次世界大戦のきっかけになった。
この時代を説明するものはいろいろある。中産階級が台頭して、小さな君主国家の枠組みが崩れさったこと。そうした諸邦を統一するのに言語に着目した「民族」という意識が産まれたこと。宗教権威が崩れつつあり、代わりに「科学」が台頭しつつあったことなどだ。新しい枠組みが作られつつあったのだが、まだその秩序がどのようなものになるかという形は全く見えていなかった。
一方、オーストリアは多民族国家を成立させた。この事が多様性を生む。たとえばイノベーションで知られる、ヨーゼフ・シュンペータは1883年生まれのオーストリア人だ。シュンペーターの理論は、均衡を停滞と捉え、均衡が何者かによって崩されることで市場全体の活気が保たれるという理論で、これを創造的破壊と呼ぶ。つまり一定の枠組みのもとで、動的に動いているのが「活気」の源だと考えられていたわけだ。
ヨーロッパにはもはや、領主やカトリック教会の元で秩序ある暮らしをするというような状態にはなかった。枠組みは常に崩されており、対立関係が至るところに見られた。こんな中で「個人がどう時代に対応するか」ということはとても大切なテーマだったに違いない。マネジメントの父と呼ばれることになるピーター・ドラッカーは少し遅れて1909年にウィーンで産まれる。この人もユダヤ人だ。ドラッカーはユダヤ人迫害を怖れてアメリカに逃れる。社会の一方の極を支配しはじめていたのが「企業」と「アメリカ」だった。
オーストリアにはいまのグローバリズムに似た状態があった。混乱と多様性が、経済学と心理学を生み出したのである。